久しぶりに、烏孫関係で閃いたので、いちおまとめておきます。
このブログではたびたび日本の烏孫起源説をとりあげてまして、記事数もかなり多いです。一冊本が書けそう。
しかし最近はいいこともあるとは言え、貧乏だわ、ウソみたいな奇妙な出来事はありすぎるわ、頻繁にイライラさせられるで、人生がひどいのは相変わらず。
全てボクチンが悪いのだろうか。
○いつも助かっております
烏孫の名前
さて、騎馬民族の国だった烏孫(ウソン、ウスン)という名前は一体何を示すかというのは、以前から議論がありました。
一説には
「烏孫」の現代中国語読みは「ウースウェン(Wu-sun)」で、中期中国語では「オスウェン(ɔswən)」、古代中国語では「アスウェン(âswin)」となる。
これは古代インド語で「騎手の複数形」(または双子の騎手の神)を意味する「アシヴィン(aśvin)」に近く、「烏孫」の原名は「アシヴィン(Aśvin)」であったと推測される。[5]
最近は、こんなアスウェンだとかアシヴィンみたいな、ぽっと出の仮説があるようで。
手元の学研漢和大字典の上古音とちがうので、ちょっと意外な感じ。
個人的には、烏孫人は太陽に住むという三足烏を、家紋のようにシンボルマークに使ってたかもしれないとの仮説を考えました。
三足烏が仕える西王母は、中国の崑崙にいたとの記録があるとか。
この三足足烏は、太陽の中にいる設定なんですよね。これは古代エジプトの太陽神ホルスによくにてる。
つまり三足烏を信仰する人々は、古代エジプトからタリム盆地の西域(新疆)の崑崙に移ったんではないかと。
その叡知は烏の名を持つ烏孫が受け継いだんではないかと。
後にヤタガラスとして日本の熊野へ入り込み、信仰された、という想像ですが。
ちなみに日本書紀では神武天皇は三足烏ことヤタガラスに道案内されてますね。
あの話では、熊野のあたりから兄宇迦斯・弟宇迦斯兄弟、兄磯城・弟磯城がでてきます。
あれ、宇迦斯(うかし)の迦斯は月氏、兄磯城(えしき)はイシク湖であると、考えたのはずっとまえでしたが。
神武東征は中東から出発し、西域にたどり着いて烏孫を建国した物語であると、発想して記事かいてました。どっかに関連記事あります。
はなしはもどって、烏孫は烏の孫、すなわちエジプトという太陽神信仰の本拠地を、まるで孫のように受け継ぐ国みたいな意味合いではないかなと。
烏三としてもあんまり違和感がないのは、三足烏の名前にかけているからかも。
そういえば関係ないかもしれないですが、アスウェンと言えば古代エジプトのアスワンとそっくりだけども、偶然だろうか。
アスワンといえば、アスワンハイダムとか、紀元前にできたアブシンベル神殿みたいなのが有名だったりするとこすね。
邪馬台と大和は烏孫を受け継いだ
さて烏孫が日本に受け継がれたなら、「なんで烏孫の名前が日本にないの?」という話になります。
これは古代中国や、騎馬民族の国を見てもわかる通り、王朝が変われば国名も変わってしまうことが関係するような話かと思いますが。
でもそうじゃなかったです。
これは誰も知らない秘密の一端、というか俺の妄想ですけども。
烏孫の名を改造して、邪馬台国や大和の名前ができたんではないかと、考えました。
その理由は以下のとおりです。
烏孫、鴉末、邪馬台、大和
(1)まず烏孫というのは、烏+孫でできてますよ。
(2)烏は、別の漢字に置き換え、「鴉」とも表記できるじゃないすか
(3)孫は、日本語の別の言葉で言い換えれば「末(すえ)」と言うのですよ
(4)すると、烏孫は、「鴉末」になるではないすか
(5)鴉末は、音読みすると「ヤマツ」なのですよ
(6)鴉と邪馬台の「邪」は同じ牙編ですね
(7)ヤマツのツの子音がoに転化したら、「ヤマト」ですよ
(8)ヤマトに漢字を当てたら、邪馬台になるじゃないすか
(9)のちに漢字を代えて、大和ですよ
つまり、烏孫➡鴉末➡邪馬台➡大和
という知られざる、烏孫を元にした、国名の改造があったのではないかと。
すなわちそれは天皇が、烏孫=ヤマトから来たことを表すに、他ならないわけですよ。
まぁ信じられませんね。信じなくていいです。
他の古名が証明する
それは、地名によっっても証明できたりします。
むかし日本の古名は「扶桑(ふそう)」といったのですが、これは扶桑(huso)なので「uso」が入ってるのは嘘じゃないです。とすると、烏孫の発音は、むかしはアスウェンではなく、wusonに近い発音だったのかもしれないすよ。
また、葦原の中つ国(あしはらのなかつくに)の異名も、烏孫がアシンだとしたら、葦の発音で一致するような感じ。
あとはかつて奈良の土地が、烏奴国(宇陀)だったことも関係しますね。
何しろ卑弥呼の時代に、日本列島がユーラシア大陸に見立てられ、烏孫は宇陀、サカは大阪(ウサカ)、トハリ(トカラ)は巴利国(播磨)、匈奴は信濃、扶桑は総(ふさ)国みたいに、地名が当てはめられて、名付けられてたからですよ。想像ですけど。
あとは弥生時代に魏が編纂しれた「魏志」では、国名が列挙されてる中で、倭だけタイトルが「倭人」なのも気になるところ。これは烏孫がズーズー弁みたいに濁ってウズンと呼ばれたものと、倭人を掛けているからなのではないか?と思ったりしました。
ちなみに10世紀頃、烏孫があった土地のそばには「ウズ人」がいたのです。ウズベキスタン人の先祖ぽいですが。
紀元前から3世紀まで烏孫があり、その土地に10世紀にウズ人がいて、いまはウズベキスタンがある、ということは関連がありそう。
ウソンがウズに訛ったかもしれないという可能性は、大陸にもあったりするのです。
烏孫 ウズン wu-zun
倭人 ワジン wa-zin
そうすると古代の烏孫の読み方は、アスウィンではなく、やはり「ウソン」に近くて、だからこそ10世紀までウズの名が残ってたのかと。
まぁ、上記はぜんぶ以前書いてた俺の想像ですけども。
そして、過去の調査で、ユーラシア大陸には、ヤマトの道筋があることが判明してました。
烏孫のあたりに邪馬台みたいな地名があり、それが東夷の扶余を経て、倭まで繋がってるんではないかということです。
こうなると烏孫と邪馬台国、大和の繋がりはもう、明らかじゃないですかね。