むかし露西亜の南方に興味深い地名があったのです。今回はこれについてのおはなし。
ポチで助かっております。
東ヨーロッパの太和嶺
「世界史年表地図」より
先日に大陸にあるヤマト地名の考察の記事書いてましたが。
そう言えばロシアのあたりにヤマトっぽい地名あったなと思い出して、愛読してる「世界史年表地図」を開きました。
それで13世紀の地図のなかに、たしかにありました。その名も太和嶺。
これもヤマト地名かも
— たっちゃん@古代史研究+アート (@t7a7t0o1) 2022年9月21日
13世紀ロシア・グルジアの太和嶺(コーカサス山脈) ヤマト山脈 pic.twitter.com/AUKyblZSXX
黒海とカスピ海に挟まれた山脈は、いまはコーカサス山脈とかカフカス山脈と言われるやま。ロシアとジョージア(グルジア)の国境にまたがっています。
これが13世紀の頃は、なぜか日本の大和のような太和嶺だった。不思議ではないですか?
当時の呼び名はなんだったのだろう。タイワ、タイファ。
ちらっとウィキペディアを見たのですが、コーカサス山脈のページに太和嶺については掲載されてなかったです。そもそも「世界史年表地図」なんて見てる人はあんまりいないかもしれないので、知らない人のほうが多そうだし。
ところでロシアは露西亜と書くのですが、グルジアは喬治亜なんですね、喬はグルとは読めませんが。ジョージアのジョーの音写なのかと。
(喬→ギョウ→gyo→geor→georgia)
それより13世紀に東ヨーロッパのあたりまで、漢字文化圏になっているのも興味深いことでした。チンギス・ハンが強大な蒙古帝国(元)を築き、ユーラシアの隅々まで席巻したことが理由です。
その時にヨーロッパまで侵入したことで、いまもヨーロッパ人にはモンゴロイドの血が混ざっているようですね。
東ヨーロッパに向かった蒙古軍はキプチャクハン国(金帳汗国)、西アジアの蒙古軍はイルハン国を立て、地域ごとの統治をしたようです。
太和嶺は、ちょうどキプチャクハンとイルハンの境界に名付けられていました。
それにしても、13世紀ころに蒙古人がコーカサス山脈を太和嶺と呼んでたのは、何を意味するのか。ここがヤマトの故郷に関係すると思われたのですかね?
太和
大和
ヤマト
当時の蒙古帝国の王だったチンギス・カン(成吉思汗/チンギス・ハン)、実は日本から渡った源義経(みなもとのよしつね)だった説はよく知られてます。
モンゴル人が知れば、そんなのあるわけないだろ、なんて言うかもですが。
12世紀の牛若丸こと源義経は、鎌倉幕府の源頼朝の弟。武芸に卓越していたので平家討伐の功労者でした。
しかし身勝手な行動をしたので朝敵とされて命を狙われ、岩手のほうで自害したとか言われてます。
ところが源義経には不老不死伝説があって、実は生き残って蝦夷地(北海道)のアイヌの中に逃げたという伝承もあります。
さらに大陸に渡り、チンギス・カンとなったとかいう説は、江戸時代初期に沢田源内という人がいい始めたとか。なんでも清の乾隆帝の御文の中に
「朕の先祖の姓は源、名は義経という。その祖は清和から出たので国号を清としたのだ」
という一文が含まれていたとかいうのですが。これの真偽は不明なのですが、ほんとだとすると凄いのですが。
しかしチンギス・カンと源義経は、いろんな要素で共通点があるんですよ。生年月日のほうでは、
源義経 生まれ1159年 死亡1189年 31歳
チンギス・カン 生まれ1162年 死亡1227年 60歳
ほとんど生年月日は同じ、同世代だったので、同一人物説が事実なら成立します。
源義経が死んだか行方不明になったのは31歳だったので、その後60代まで生きていても不思議はないようです。源義経が30代の頃に大陸に入って、チンギス・カンになったのかと。
するとチンギス・カンの幼い頃の名「テムジン」としての記録はなんなのかと思ってしまうのですが。
幼いテムジンは実在したけど、どこかで退場。百戦錬磨の源義経があらわれて剣に物を言わせて実力者となり、やがてチンギスカンになっているのだろうか?
チンギスがテムジンだった頃、何度も敵に敗北し、捕虜になったり殺されそうになってる記録があるんですよ。テムジンは戦争で実は死んでいて、そこに源義経が現れてこっそり入れ替わってるんですかね。
顔つきを見ると、似た感じもあるようなんですよね。丸顔で切れ長の目で鼻は高く、髪の毛は薄いといった感じで。ひょっとして、運命が導いたそっくりさんだったのではないかと。
そうすると入れ替わったあと、言葉を発しなければバレなさそうだし。これにはテムジンを取り巻いていた、蒙古人の策略があったんじゃないですかね。戦闘力に秀でた源義経をテムジンに入れ替えてしまえ、みたいな。
すると義経の子分だった武蔵坊弁慶も一緒にいたはずですが、彼はなんという名前になってるんですかね。
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名前の要素が決定的な意味をもつ
名前を見ても、似てる要素はあるようでした。実はモンゴルでは、チンギスという名の語源は不明とされてるようなのです。
すると源義経をもとに、チンギスを作っている可能性はあります。ちょっと考えてみると、
成吉思汗 源義経
1 吉(よし) 義(よし)
2 ジンギ ゲンギ
3 海(tenggis) 海を渡った
4 黄金の氏族 金色堂
これはひとつづつ説明します。
(1)まずどちらも「よし(吉・義)」がはいっているのは、わかりやすい特徴。チンギスが義経だとすると、改名のときに同じ発音を込めたというわけでしょう。
(2)チンギスをジンギスとし、源義経を音読した場合、ジンギとゲンギで似てきたりするのも気になるところ。すると源義経をもとにして、成吉思という漢字を考案してるのかと。
(3)チンギスとは、一説に海(tenggis)のことだと言われています。しかしモンゴル高原には海がないのに、なんで海なのかと思うのですが。
源義経が「東の海を超えてきた」から海なのだとすれば、意味はすっと通じる感じがするでないですか。
(4)チンギス・カン一族は、黄金の氏族(アルタン・ウルク)と呼ばれてたのですね。いっぽうで源義経が最後に過ごした平泉の奥州藤原氏の中尊寺は、義経が生まれる前に完成した金色堂が知られてたりするとか。金色堂と黄金の氏族は金で結びつくのが意味深なかんじですね。
(5)そしてチンギスの諡号は「法天啓運聖武皇帝」で「聖武」とあるのですが。
これ、日本の8世紀の聖武天皇を意図したもののように見えました。日本との繋がりを示してるようではないですか。源氏はそもそも聖武天皇の天皇家を先祖とする氏族だったし、聖武天皇に畏敬の念を持ってたんですかね?
源義経の幼名に「遮那王(しゃなおう)」とあるのが答えを導くかもですが。遮那とは毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)、別名で大日如来のことのようでした。
それで当時の日本でいちばん有名な毘盧遮那仏(大日如来)といえば、8世紀に聖武天皇が作らせた、奈良の東大寺の大仏だったりするんです。
すると、源義経が聖武天皇がつくらせた毘盧遮那仏の「遮那」を名乗っているのと、チンギス・カンの諡号に聖武があるのは、密接な関係があったわけなんです。
・・・・・・・・・・
というわけで、チンギス・カンこと源義経と一族が日本を意図し、色々命名したとすれば?コーカサス山脈の太和嶺も、日本の大和を意図して命名しておかしくないとの解釈ができるなと。
13世紀の蒙古襲来という出来事も、ひょっとして源義経の子孫が、義経が母国を追われたことの仕返しをしに来たのかと勘ぐってしまいます。
まぁいずれにしても単なる妄想でしかないですが、ロマンはあるではないですか。
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