ユーラシア大陸諸民族が想像以上に、大きく倭へ影響を与えていると言っても、なかなか俄には信じられなかったりしますね。日本人は子供の頃から日本文化は日本固有で日本独自で唯一無二だと思い込まされてきましたし。
でも中央アジア、とくに中央アジアの烏孫の存在を匂わすヒントは、たしかに奈良盆地に残されていのですよ。
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○いつも助かっております
大和湖(奈良湖)
その昔、弥生時代の後期末期の頃まで、奈良盆地には巨大な湖がありました。
それは歴史的には「大和湖」とか「奈良湖」と命名されているそうです。かなりマイナーな存在。
以前に作った地図があったと思い出して、探したら2012年の記事にあった。
大和湖は関東地方でいえば、今は殆ど見る影も無くなっている「見沼」という巨大湖と存在感を重ねることができそうです。
見沼はいま「見沼田んぼ」となって、首都圏で数少ない広大な田園地帯になってますが。
奈良県の大和湖の跡地も、昭和時代までは田んぼや池や集落があるばかりでしたが、いまや盆地内全体の都市化が進み過ぎて、面影もほぼ少なくなったとか。
奈良県は田舎というイメージがあったのに、食料自給率は47都道府県でも下位のほうで、それだけ都市化してしまったとか。
でも奈良盆地には何故か小さな池が無数にあり、実はそれらが、かつての大和湖の跡を示しているようです。
たとえば大和湖の北端にあたる、大和郡山市のあたりでは、かなり残ってるのでは。
こんなふうに。新木町のあたりは特に集中してます。
大和湖全体の地図をもう少し詳しく見てみる。
大和湖が広がっていたのは、ちょうど奈良盆地の中央部の西側。大和川、曽我川、葛城川、竜田川、富雄川などの幾つもの川が合流している地点。
Flood Mapsは海水面が上昇したらどこまで水が行くか、様子が分かる地図。これをもとに作ってみた、大和湖の想像図。
奈良盆地に巨大な湖があったのは、盆地という山に囲まれて水が溜まりやすい地形だから不自然ではないことでした。
奈良盆地には海水棲生物の縄文貝塚が無いということだし、地震時にも特に塩がにじみ出るという害も無いので、大和湖というのは海水面が上昇してできたのではなく、山の水が溜まったことによる淡水湖ですね。
そしていま、奈良湖のあたりの地名を調査すると、湖に良く見られる地名が幾つか見つかるんです。
・北浦・・・広陵町の北浦の「浦」とは、海や湖の入江や浜辺を現す言葉なので、いま大きな湖がない広陵町に、浦があったことは大和湖の存在を伝えているよう。
・保津・・・田原本町の保津の「津」とは港のことで、川がないのに港ということは、かつての大和湖の港を現すのかと想像。
やはりむかし湖だった情報は、てんこ盛りなのでは。
何故に大和湖が消滅したかといえば。
奈良盆地という人が居住しやすい平地の開発を行った弥生人がいました。生駒山地に流れる大和川の岩盤を掘削し、湖の水を抜くことによって土地を増やして開発を進めたという説があり。
ほか、農業で自然と土砂が湖を埋めたという説、しぜんと川が開削されて水が抜けたという説があるようです。
本当の湖の名称を見つける
この大和湖がむかし、何という名前だったのかは、完全に不明で、いま暫定的に奈良湖とか大和湖と呼ぶのです。
別に大和湖や奈良湖で良いじゃないかと思われますが、古代にあったものを探るのが歴史を研究する人の本能というものですし。
ヒントは磯城郡。大和湖のあった地域は、古墳時代の律令制度のころから、広域的に「磯城郡」があったことから、湖のほんとの名称を想像するこては可能でした。
磯城郡は当初の名を式群、磯城群といって、昔から式上(しきじょう)・式下(しきげ)、あるいは城上(しきじょう)・城下(しきげ)などと名称が変遷しました。
城の1字だけでシキと読むようです。
想像によれば、当初の大和湖は、磯城湖という名前に近い名称だったのではないかと。
では磯城郡と大和湖の範囲を重ねてみる、すると大和湖中心部と磯城郡域はぴったり重なることがわかりました。
次に奈良湖の周辺にシキという地名がないかを探してみます。するとこんな感じになった。
不思議とシキ系地名が奈良湖を取り囲んでるではないですか。
磯城(シキ)、城上(シキノカミ)、城下(シキノシモ)、信貴山(シギサン)、椎木(シギ)志紀(シキ)、石切(イシキリ)、石木(イシキ)、石上(イシカミ・イソノカミ)、石川(イシカワ)、新木(ニキ=シキ)。
この大和湖を中心とした場所だけ、シキ、イシキ系の存在感ある地名で取り囲まれてますよね。なんでだろ。イシキだけに意識高い系なのだろうか。
イシク・クル
イシク・クル(ウイグル語:Ysyk-Köl[1]、キルギス語:Ысык-Көл、ロシア語: Иссык-Куль)は、天山山脈の北、キルギスの北西に在る内陸湖。イシク湖、イシククル湖、イスィククリ湖などとも表記される。イシク・クル州に位置しており、この湖の北岸はイシク・クル地区と呼ばれている[2]。古称は熱海(呉音:ねつかい、漢音:ぜつかい)。唐代の詩人岑参は、「側聞陰山胡児語、西頭熱海水如煮。海上衆鳥不敢飛、中有鯉魚長且肥。」と詠んでいる。
熱=トルコ語で「イシ」
イシク湖はトルコ語で「熱い湖」の意味があるので、古代から中国語表記は「熱海」になってるんですね、
世界で「熱海」があるのは、キルギスと日本の共通点なんですが。これも、「日本雛形論」にリンクしているようで意味深。
試しにトルコ語で調べてみたら、トルコ語の「イシ(isi)」は日本語では「熱い」という意味だった。さっきの奈良盆地の地図みると、大和湖は「石」の地名で取り囲まれています。
大和湖がイシクであることを表すために、「石」という漢字を用いていると考えることができるわけです。
結論は大和湖=イシク湖だった
結論としては、やはり大和湖とは、キルギスのイシク湖を日本列島に置き換えた存在、大和湖をイシク湖と呼んだ権力があったということではないかと。
広い目で見れば中央アジアだけでなくユーラシア大陸全体の地名が、日本列島に移植され、漢字表記されていると見て良いと思いますが。
そうしたことを行った理由は、「中央アジア人を含むユーラシア諸国の人々が、倭人の中枢にいたから」ですね。
・中国史書を見る限り倭国の中枢はユーラシア各地からの帰化人だらけ
大陸と日本をリンクさせた日本雛形論の思想が、弥生時代後期から倭人の権力者のなかにあったのだと。こんな仮説は、なきにしもあらずというか、あっておかしくないですね。
磯城郡や志紀郡や信貴山のシキというのは、イシク=イシキのイが抜けた地名だろうし、石切や石木はそのままイシク湖の地名を漢字に置き換えたんですよね。
実際、奈良県あたりの地名と、烏孫・キルギスの地名を比較すると異様に似かよったものが見えてきますし。
奈良 中央アジア
磯城 イシク
石切 イシク
弓月岳 弓月国
橿原(カシハラ) 月氏
河内 月氏
大阪 サカ
堺 サカ
これにイシク湖を加えておきたいです。
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ほか、ブログ内検索やグーグル画像検索で「烏孫」を検索すると関連記事出てくるかと。
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