世界で異彩を放っている建物ランキングがあったら、上位に入ってくるんじゃないかと。
投入堂(なげいれどう)は、鳥取県三朝町にある三徳山三仏寺の奥院。山の断崖の窪みに建造された平安時代の懸造り(かけづくり)木製堂で、三仏寺の開祖とされる役小角が蔵王権現などを祀った仏堂を法力で山に投げ入れたという言い伝えから「投入堂」と呼ばれる[1]。平安密教建築の数少ない遺構であり[1]、国宝に指定されている。
役小角(えんのおづぬ)が開祖だとのことで、この人は日本中を法力で飛び回ったという伝説の持ち主で、日本のあちこちの山を信仰の山に変えた張本人だとか。
似たタイプの断崖の穴の中の建築物としては、福岡東峰村の岩屋神社。断崖の穴の中にすっぽり入っていて、高床式なところも似てるんですよね。
ほか、ただ断崖に造られているだけな感じで、佐賀県鹿島市の祐徳稲荷神社、京都市の清水寺、千葉県館山の崖観音、千葉県長生郡の笠森寺みたいなのが有名所。
そういえばこの近所は、この家も含めて別荘の高床式タイプが多いです。
・・・・・・・・・・・・・・・
○いつも助かっております
最近の投入堂ニュース
投入堂は最近になり話題を提供していました。
2017年3月21日
三仏寺投入堂、地震で損なわれた参拝道の復興決定 わずか数日でクラウドファンディング成功 - ねとらぼ
2017年4月16日
絶壁の国宝「投入堂」への参道再開…鳥取地震で亀裂、ネット浄財で整備 鳥取・三朝
2017年6月18日
日本遺産・山陰の「物語」の世界へ鳥取編 大山牛馬市・癒しの三朝 | トラベルニュースat「今すぐにでも出たくなる旅」山陰鳥取特集
どうやら昨年2016年に鳥取で起きた鳥取県中部地震の影響で、投入堂も倒壊危機だったところ、今年春になり修復が完了したとか。
・・・・・・そういえば俺がこの高床式の家を購入、リフォームして、移り住んだ時期と妙に重なってるのは気のせいですか。
2016年10月21日 鳥取県中部地震。投入堂の参道破損で参拝が禁止に
2016年10月 埼玉でいまの静岡の家(高床式)に興味を持つ
2017年12月 静岡の家を購入、リフォームも決定
2017年4月15日 静岡の家のリフォーム完成
2017年4月18日 投入堂の新しい参道が完成、参拝再開
2017年4月20日 静岡の家に移住
まあ気のせいですよね。役小角(えんのおづぬ)とか・・・。
あ、最近噴火して地震も発生してる御嶽山も、役小角が702年に開山したのだとか。
御嶽山といえば国常立命を祀っている山で、御嶽山の山頂にあった白川大神の石像の首が吹っ飛んだことで話題になってました。
そういえば、御嶽山って、5,000年前に噴火をして以降は長らく休止していたのに、俺が生まれた後に噴火してるんですね。
1977年1月 俺が生まれてすいません
1979年10月 御嶽山5,000年ぶり大規模噴火してすいません
2014年9月 大規模噴火で白川大神の首が飛んですいません
・・・投入堂の話に戻ります。
そんな俺と関連づいているみたいな気がするだけの投入堂ですが、やっぱり関連づいてました。
前方後円墳の中心軸の前後に、被葬者の名前に関係する遺跡があるというレイラインの仕組みに気づいたのが2010年頃だったかと思います。個人的に前方後円墳矢印説といってブログに発表していました。
ところが1980年代にすでに「前方向法則」という名で歴史作家の井上赳夫氏が発表をしていたと教えられました。この井上氏の仮説は、現在では全く相手にされないもので、死仮説となっていたのですが、なんとなく思いつきで調べているうちに井上氏と同じところに到達していたのでした。
崇神天皇関係の本を書いたのが2012年のことです。その後色々研究をして、また 出版しようとしたら上手く行かず。でまさかの両親とも揃って他界するという展開により、ますます続編は遠くなり、今日に至りますが研究はしていました。
崇神天皇陵と投入堂の関係については最近になり気づいたことです。
崇神天皇陵とはこんな形をしていて、中心軸は西北方面から南東方面に向かっています。
このラインを び~っと引っ張っていくと、こんな感じになるのです。
寸分も狂いなく、投入堂が建っているということでした。
何の関係があるの?って感じですが、この崇神天皇陵と投入堂がどんなふうに結びついているのか、互いの情報を比較すると見えてくるものがあります。
・諡号「御眞木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと)古事記
・御眞木=みまき=三真木
・入
・三朝町
・三輪氏(役小角)による開山
・入
三徳山三仏寺投入堂は、三徳山という山の断崖に建てられています。
要するに神の諡号を持つ役小角=三輪氏が建てた、蔵王権現三尊を祀る、三朝町の三徳山三仏寺投入堂の漢数字の「三」と「入」と「神」が、崇神天皇の諡号に合致してくるんです。
さらに崇神天皇陵から西北へと伸びているライン、これはもう一つの意味合いを持っていました。
崇神天皇陵からの延長線と、三徳山三仏寺に所属する複数の堂宇は、すべて平行する方角を意図して建てられていることが明らかだったのです。
これで投入堂を含む三仏が、崇神天皇陵に関係しているモニュメントである可能性が出てきたというワケです。
三仏寺の開山者は修験道の開祖である役小角で、この人は舒明天皇6年(634年)に大和国の生まれだそうです。一方の崇神天皇は私見によれば卑弥呼そのものであるので、実在年代は2世紀末から3世紀半ばということです。もし崇神天皇が卑弥呼じゃなくても崇神天皇は同じ頃にいたと思います。
崇神天皇陵は崇神天皇の死後100年が経過した4世紀の建造物ですが、役小角が大和でものごころ付いた頃には、見る機会があったでしょうね。
きっとこの崇神天皇陵の「前方向法則」については、秘密の叡智を保持する三輪氏・賀茂氏の系統である役小角も学んでいて、その方角に三徳山三仏寺を開山したということはありうる話です。
役小角の後の平安時代に建てられた投入堂も、そんな崇神天皇陵との関連を示すために、入の一時を取り入れて、投入堂と命名したんではないかと。
あるいは投入堂は役小角の頃、初期投入堂としてすでにあって、それは今は見る影もないというわけなの加茂しれないです。
まぁこれまでこんな真相があったのに知らなかった、投入堂の関係各位の皆様には、突然こんな無鉄砲をぶちまけて申し訳ないですが。
これも今後いつ完成するかわからない電子書籍に加えておきますね。
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