たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅勤務の自営業。

「騎馬民族の影響を完全否定するのはトンデモ(1)」 匈奴は来た

ちまたでは、騎馬民族征服王朝説は、トンデモ説として片付けられて久しい。

近隣の子供、中高生が、我が家の前を通る時、代わる代わる奇声を発していく。輪番制らしい。そんな中で、もうトンデモ説で確定したかのように語られて悔しい。そこで。 

 

騎馬民族の影響を完全否定するのはトンデモ説」

と言っておきたいと思います。今回のブログ、文章がとても長くなっております。

 

今回は「匈奴は来た」偏。

古代の日本にやってきた騎馬民族の影響を、否定的に語ることこそ、トンデモな話だったのです。。*1・・・・

 

(トンデモというのは、非常識でありえない、とんでもないという意味で使われます。)

 

ツイッターにこんなふうに書きました。

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日本列島に騎馬民族は入っていた。間違いなく入ってた。その具体的な証拠を取り上げていきます。

 

(1)日本列島に「匈奴」が居たことを示す日本書紀の記録

 

アジアで騎馬民族の代名詞的な存在が匈奴でした。中国が殷・周だった頃から、匈奴の前衛的国家「獫狁」があり、紀元前2世紀頃の前漢の時代には中央アジアから満州に至る、広大な土地を支配していました。彼らは馬に乗りカッポカッポと闊歩しました。匈奴の勢いは長く続きましたが、4世紀にはアジアから姿を消し、他の民族と同化してしまいました。

 

実は日本列島に、匈奴はかなり早い段階から入り込んでいたのでした。

以前に書いたブログ記事こちら~

日本武尊の時代の東日本の蝦夷は匈奴だった - たっちゃんの古代史とか

このブログから、すこし抜粋してみます。 

 

日本書紀の記録から

蝦夷生活様式と風貌、それに気質を調べますと、どう見ても匈奴です。本当にありがとうございました。

ではその根拠が記してある、『日本書紀』(宇治谷孟・訳)を見てみよう。

日本武尊の東征に際し、景行天皇は次のように仰せになった。

「いま東国に暴れる神が多く、また蝦夷が全て背いて、人民を苦しめている」

「かの東夷は性凶暴で、陵辱も恥じず、村に長なく、各境界を犯し争い、山には邪神、野には姦鬼がいて、往来もふさがれ、多くの人が苦しめられている。その東夷の中でも、蝦夷は特に手強い。男女親子の中の区別もなく、冬は穴に住寝、夏は木に棲む。毛皮を着て、血を飲み、兄弟でも疑い合う。山に登るには飛ぶ鳥のようで、草原を走ることは獣のようであるという。恩は忘れるが恨みには必ず報いるという。矢を髪を束ねた中に隠し、刀を衣の中に帯びている。あるいは仲間を集めて辺境を犯し、稔の時をねらって作物をかすめ取る。攻めれば草にかくれて、追えば山に入る。それで一度も王化に従ったことがない」

日本書紀のなかにある「蝦夷が血を飲む」という風習は、倭人や普通の蝦夷の風習じゃないです。

どこの民族かといえば、スキタイ、サカ、そして匈奴のほうにあったと考えられました。

ウィキペディアの髑髏杯のページを見ると、こうあります。

紀元前8世紀~紀元前3世紀にかけて現在のウクライナに割拠した遊牧民族スキタイの習俗に「頭蓋骨は近親者か最も憎い敵に限り、髑髏を眉の下で切り牛の生皮を貼って杯として用いる」とあり、これが最も古い髑髏杯の記録だと思われる。

プリニウスは『博物誌』に、ドニエプル川の北方部族が髑髏杯を用いる事や、夜間に泉から汲んだ水を髑髏に入れて患者に飲ませるという癲癇の治療法を記している。

イッセドネス人は親の葬儀で喜びを表し、集まって祝祭を催す。そして故人の遺体を引き裂いて家畜の胎児の挽き肉と混ぜ合わせ、宴に来た人々にふるまい、食べつくす。頭蓋骨は磨き上げて黄金を巻き、杯に使う。これらの行為はイッセドネス人における最大の親孝行であるという。

紀元前2世紀、モンゴル高原に割拠した遊牧国家匈奴の老上単于は、隣国(敦煌付近)である月氏の王を討ち取り、その頭蓋骨を盃にした。以後、この髑髏杯は代々受け継がれ大事な時に使用された。

516年、高車王の弥俄突(在位:508年 - 516年)は柔然可汗の醜奴(在位:508年 - 520年)と戦い敗北した。醜奴はその両脚を駑馬の上に繋いでこれを殺し、その頭蓋骨に漆を塗って盃とした。

・・・わかりますたね。

スキタイを含む東欧では吸血鬼が存在したと言われています。血を飲む人々が、東欧には実在していました。

匈奴は髑髏杯をつくり酒を飲む習慣がありました。実は織田信長も同じことをしていましたが・・・。

つまりスキタイ出身の匈奴人ならば、血を飲んだかもしれないですね。

 

そして、日本書紀蝦夷の特徴には、

「攻めれば草にかくれて、追えば山に入る」とあるのですが、実はこれと同じような表現が「漢書匈奴伝第六十四」にあるのです。

「有利と見れば進み、不利と見れば退いて、遁走するを恥と思わなかった」

「毛皮を着て」の部分も、匈奴伝に同様にあるし、

「男女親子の中の区別もなく」のところは、匈奴が老人を敬わず、目上に対しても敬語を用いず、レビラト婚制度(兄弟が死ぬと、妻は残った兄弟の妻となる)という、匈奴の風習を記したものと思われたのです。

 つまり日本列島に、すでに匈奴は多く入り込んでいて、彼ら匈奴蝦夷の中に含まれてたことになります。蝦夷といっても一種類ではなかったのです。

 

 (2)長野県の旧国名信濃」は匈奴を現す地名だった

 

日本の地名の中に「匈奴」があるとしたら?

その匈奴の地名が、日本列島に大規模に存在していたら?

それは匈奴が日本列島に入り込んだことの証左と成り得ます。

移住地に、離れた故郷の名前を名づける。それは世界中どこでも同じだから。

アレクサンドロス大王の到達地には、アレクサンドリアやイスカンダルという地名があるのはそうした理由だし、関東地方の大三輪山でもその具体例を知ることができます。 

 (関連記事)

奈良盆地の三輪山・大神神社に対応している、関東平野の三輪野山・三輪神社

大和三山に対応する山を関東地方に発見した鴨4 結論 

千葉県流山市の三輪野山は、奈良の三輪山の名を名づけたものでした。 こうした例は無数にありますし。

 

ところで 

このブログの「ふたたび諏訪へ」にはこんな一文が・・・

信濃匈奴の中国読み「シンノ」であり、匈奴そのものだという

同じようなことを考えてる人はいました。

 

匈奴を中国現代語ピン音で発音すると、Xiōngnú(ションヌ)と言うらしいのですが、

信濃はシン+ノウ

匈奴はション+ヌ

ということなので発音の一致が見られたのでした。

 

「匈」の上古音は「学研漢和大字典」によると

呉音[ク]、漢音[キョウ]、中国の上古音hiun、中古音hion。

時代や土地によって、匈奴の名はフンヌ、フナ、キョウド、キョンヌ、ションヌと様々でした。

それはあたかも日本がニッポン、ジッポン、ニホン、ハポンジパング、リーベン、と異なる音を持っているように。

日本(ニホン)の「ホン」も「匈」を意図しているとして不思議ではないですが・・・。

匈を「ション」というのは中国の現代音ですが、古代にもションの音はあったのかもしれません。「信濃」は古来より長野県に存在したから、その証拠となり得ます。

 信濃国には「埴科郡が」ありますが、匈奴は「フナ、フンヌ」とも発音されたので、「ハニ」は匈奴転訛と考えられたのでした。

つまり信濃匈奴)の中の埴(匈奴)ということで、匈奴は広域的に入り込んでいたのでした。

それがいつしか忘れ去られて、従来の地名の由来に置き換わっています。長野県の方を唖然とさせてしまいました。聞いたことのない話だったかもしれません。

 

(3)匈奴の日本列島進出を指摘する著書

 

小林恵子(こばやしやすこ)著『三人の神武』では以下の様な文があります。ちなみに恵(やす)は恵(けい)ではない表記が出ない。

 

1「隼人が朝堂の前に並んで犬の声を発する儀式がある」

2「チンギス・ハーンのモンゴルが狼をトーテムとしたのは有名だが、犬や狼を始祖とする民族はユーラシア大陸全体に広く分布する」

3「犬戎(中国西北の異民族)は黄帝の子孫の雌雄の白犬で、赤髭、白い肌、

黄金の目だという。犬戎の身体的特徴は白人系だった」

4「狗奴国はその国名からして明らかに犬祖伝説を背負っていた」

5「倭国には国の名に奴のつく国が奴国、狗奴国以外に、弥奴国、姐奴国、蘇奴国、華奴蘇奴国、鬼奴国、烏奴国と六ヶ国もある。この奴は私は匈奴の奴からきていると思う」

まぁこんなところ。

小林氏の言うように、「奴(な・ぬ)」が匈奴系地名だったとすると、さらに分かってくることがある。

 

(3)奴・濃・野・那は匈奴系地名だった

「奴」の読みは、「な」「ぬ」。・・・なぬ?

これと同じ系統の音を持つ大きな地名が集中している地域が、本州にはあります。

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つまり信濃国美濃国伊那群、恵那郡、大野群、といったものは元は「奴の国」だったんではないかと推測が可能でした。

何故、古代の地域区分である「東山道」と呼ばれた内陸地に、匈奴系地名が集中しているのか、この回答は後に判明します。

 

(4)京都も飛騨も匈奴を示唆していた

 

 京都は当初は京でしたが、これは九州の京都郡に対応して名付けられている地名です。詳しくは拙著「日本の地名の真の由来と神武東征のカラクリ仕掛け」で。

京都は匈奴から濁音を抜き去っただけの音なので、似ているというのは思ってました(匈奴きょうど→京都きょうと)。意図的だったかは定かでありませんが。

 

一方で飛騨の語源を考えてみますと。

拙著では飛騨についてなんと書いたか忘れてしまいましたが、岐阜については吉備と同じところから出ているであろうと書いていました。つまり

吉備(ki-bi)→岐阜(ki-bu)ということになれば、岐阜が中国地方吉備と同一系統の地名なのは明らかだからです。吉備と岐阜はかつては深い関係にあったはずで、共に高天原が存在していることでも一致しています。吉備の高天原は蒜山、岐阜の高天原は飛騨の高山、乗鞍岳などと言われたりします。

「飛」は飛ぶ

「騨」は単騎の馬

ということで、単騎の馬が飛ぶ土地とは不思議なことです。

これは天馬のことで、ギリシア神話ではペガサス。ペガサスの生誕伝説として、一説にはペルセウスがメドゥーサの首を斬ったとき、滴る血から生まれたとするものがあります。これ、イザナギ軻遇突智を斬ったとき、滴る血から多くの神が生まれたという日本神話と共通してますね。

日本神話は大陸起源のものが、かなり含まれてます、残念なことに。

匈奴にはかなりギリシア神話が入っていた形跡が見られますが、それはさて置き。

 

 飛騨は「hi-da」なので、匈奴を「hiun-do」「hi-do」と発音した時とそっくりではないですか。飛騨に隣接して信濃があり、美濃がある。

こうして中部地方の広域的な匈奴の影が見えてきました。京都や飛騨の方にはこれまた寝耳にミミズくらいの話になってしまいました。

 

(5)匈奴の信仰は保存されていたのか

 

匈奴という国の名前があるからには、信仰も保存されてるはずだと考えました。

奈良県王寺町久度には久度神社が残っています。くどじんじゃというのも、元は匈奴だったのか、と思うその根拠。

久度神は竈(かまど)神とも言うのです。

かまどはレンガや土で固めて作った、内部に空洞のあるキッチン。内部で火を焚いて上部で調理をすることができます。

かまどを久度と呼んだのは、匈奴の伝統的な建物がゲルと呼ばれる布製の家屋に関係しているんではと発想が出ました。かまどとゲルはそっくりだからです。

つまりこういうこと。

匈奴の神が久度の神と訛り、かまどの神が合わさって、久度神と竈神が同一視されたんではないかと。そんな仮説。

滋賀県には波久奴神社があります。久奴だから、これも匈奴が語源と見ていいんではと考えます。 

 

匈奴の信仰は日本の神道と全く同じだったことは、江上波夫著「騎馬民族国家」だとか「世界神話辞典」などから窺い知ることができました。

匈奴では天の神を崇め、地の神を崇め、狼を崇拝し、白装束の巫女がシャーマニズムにより未来を占い、犬は死者を送る存在としていました。

匈奴シャーマニズムは日本の神道にそっくりでした。

 

そして匈奴は先祖を狼として、元は西の海から来たと伝承していました。

匈奴の前衛のひとつであった犬戎が「赤髭、白い肌、黄金の目」という白人種の特徴だったのと、完全に一致しています。匈奴の先祖は元々、トルコ方面にいたのではないかと考えられ、やはり髑髏杯の風習などからも、白人種のスキタイと出所を同じくするかもしれないです。 

匈奴の王は単于といい、これは現代中国語では「チャンユ 」と発音してますが、古代の元々の発音は、タンフとかタングとか言われているなど定説はないとか。

匈奴の初代の単于は「頭曼(トーマン)単于」で、二代目は「冒頓(ボートン)単于」、この2名の存在感は大きなものがありました。

 

もし匈奴が入っていたら、頭曼単于冒頓単于を崇めていたかもしれないと思い立ち、調べてみました。

 秩父三社についてはブログ書きましたが。

 

宝登山神社というのは、もしかするともしかするのです。

宝登は「冒頓(ボートン)」が語源、なのだとしたら、秩父三社で狼を崇めているのは、匈奴の信仰が受け継がれているからだとしたら。

ここで、匈奴冒頓単于、狼信仰の3つが、秩父三社の宝登山神社、狼信仰と合わさってきました。武蔵国秩父郡の地域も匈奴系といえるのかも知れず、だからこそ日本武尊のときに、あきらかに匈奴の風習を持っているとしか思えない蝦夷が闊歩していたんだとしたら?

さらにもっと深く掘り下げてみます。

 

(6)日本列島雛形論との関係

 

しかしなぜこうして、匈奴系地名が東山道信濃を中心とするひとつの地域に集中しているのか?明確に大きな「国名・郡名」として。

これは実は、出口王仁三郎の「日本列島雛形論」に関係してるのですが。分かる人は、もう分かってしまいましたね。

日本列島の匈奴系の地域が、ユーラシア大陸匈奴に対応しているとしたら?

古代の倭人が考えてたことは途轍もない。

 

 

日露戦争後の関東都督府陸軍部を母体とし、1919年から満州に駐留した日本軍を「関東軍」と言いました。

関東軍とは、日本列島の関東から派遣されたから、関東軍なのではありませんでした。中国の満州地域を、秦・漢の昔から、関東と呼んでいたのです。日本の関東地方とは、一見して無関係・・・なように見えて、そうではなかったのでした。

日本列島の匈奴系地名の東が関東であること、ユーラシア大陸匈奴の東が関東であることは、明確な関係があると見られたのです。

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 ユーラシア大陸と日本列島は、同一性のある巨大な陸地として当てはまります。大陸の匈奴は、日本列島の匈奴系地名と一致していました。そして大陸の満州の関東は、日本の関東にぴったりと当てはまっています。

 

ということで、ここまで来て気づいたのですが、なぜ日本の千葉県を「総国(ふさのくに)」と呼ぶか、その理由です。

日本は古来より扶桑(ふそう)と呼ばれていました。

ユーラシアの東に扶桑(ふそう)(日本)があるのです。

だから、日本列島の東に、扶桑に対応させた総(ふさ)が置かれている必要があったのです。

 

そして「インド亜大陸」とは、かつては独立したインド大陸としての時代がありました。プレート・テクトニクス理論によると、パンゲア超大陸からインド大陸が独立しました。インド大陸が北上し、ユーラシア大陸にぶつかった結果、標高8000メートルまでそびえ立ったのがヒマラヤ山脈です。

一方で日本の本州の伊豆半島も、インド亜大陸と似た生成過程を経ていました。伊豆半島はかつて海底火山群だったものが島となりました。伊豆島が北上して本州にぶつかり、伊豆半島となったとか。

現在噴火の兆候が見られている、伊豆半島北方の箱根山も、伊豆がぶつかったことにより隆起するなどの影響を受けていました。

この2つの地点の成立過程の一致は不思議なことですが、インド(In-Do)の名前が伊豆(I-Du)に反映されていると見ることができます。 

 

2番めの地図を見ると、ユーラシア大陸では上から順に

「1 匈奴」「2 世界一のヒマラヤ山脈」「3 インド亜大陸(In-Do)」

日本列島では上から順に

「1 匈奴系地名」「2 日本一の富士山」「3 伊豆亜島(I-Du)」

 となっているではありませんか。

そしてその東方には「関東」「扶桑(総)」

これは大陸と日本列島上での、最も理解しやすい一致を取り上げているのです。

実際には細かな一致は無数にありますが、膨大になるので今回は取り上げません。

日本の地名というのは、日本列島で発祥し移植されたものがあり、大陸を起源として、日本列島に移植されたものがあると、そういうわけなのでした。

 

そういえばこんなサイトもあります。

日本の地名はユーラシア大陸から移されている、移転させたのは大陸人であるという内容です。匈奴の関連情報が見つからなかったので、このページを。

日本単一民族説のウソ

http://www5.tok2.com/home2/okunouso/0210.htm

 

「日本列島雛形論」は、日本列島は世界の縮図であるという骨子であるので、こうした一致が見えるに連れて、「日本列島雛形論」はもう無視できないと考えざるを得ませんでした。

このち名の一致を成し遂げたのは、ユーラシア大陸を知り尽くしていた古代世界の倭人と考えることもできます。

しかし大陸人の情報無くしては、日本列島にユーラシア大陸の情報を当てはめることはできないですよね。

日本の大和民族と天皇とは、一体何者かという問題にも深く関係してきます。天皇と大和民族には大陸から来ている人々が含まれることも、次第と分かってことになっています。

 

騎馬民族が来たかどうかの判断基準は「馬」ではない

(後日追記、2015.05.08)

 

現在の歴史学では、江上氏の「騎馬民族征服王朝説」は、信用に足らないとされ、歴史研究の中心から除外されてしまいました。

しかしこの記事にあるように騎馬民族匈奴の大きな痕跡は、確かに日本列島に刻まれているように見えました。

これは要するに騎馬民族匈奴は、馬は連れて来なかったけど船と徒歩で日本列島へやって来た」ことを表すに他ならないと言えました。

それは現代社会に当てはめてみれば、「人が小船で渡ることはできるけど、車を渡すことができない孤島」を想像してみるとわかりやすくなります。匈奴には、船で馬を運ぶ技術がなかったので、匈奴は馬を同伴せずに、人だけ日本列島へ渡ってきました。だから弥生時代から騎馬民族の騎馬の遺物が全く出ない状況は、必然的であったと言えました。古代の馬の痕跡がないから騎馬民族は来ていないなどとは、断言できないことになります。

 

騎馬民族が来た」といったら、ほんとうにトンデモなのですか。

いいえ、日本の歴史上で培われてきた、「従来の定説的な日本史」のほうが、トンデモでした。と、これから少しづつ証明していきますので。

 

騎馬民族の影響を完全否定するのはトンデモ」次回へとつづく。

次回はいつになるか不明・・・。

 

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