たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅お仕事中。

日本武尊の時代の東日本の蝦夷は匈奴だった 2022年改訂版

最近は2つの意味で、星新一の短編小説に、はまってますけど。

今年の予定は、1・出版社から出版できるかどうか。果報は寝て待て。お願いします。2・電子書籍の下巻をばっちり完成(7月頃)3・100円電子書籍をひっそり完成(下旬)4・烏孫起源論の第一報こっそり電子書籍化(下旬)まぁ、闇の組織の陰謀によって、負のオーラに包まれた人生だったので、その反動を利用して、今後もこれでもかと、キンドル電子書籍化してしまいます。妨害されても馬鹿にされても、とにかく俺にはこの道しかありませんのでね。

 

(2022年追記。目標を立てても思いどおりに行かないものと、つくづく・・・)

 

○いつも助かっております

 

 

蝦夷の正体が匈奴だったかも

 

日本武尊(やまとたけるのみこと)の頃、東日本に居たと記録のある蝦夷の正体は、匈奴だったかもしれないという話。

日本武尊というのは、4世紀前半の景行天皇の御宇に実在したと思うのですが、この根拠は発表する予定の拙著にかきますので。

匈奴というのは、紀元前7世紀以前から3世紀頃まで、ユーラシア大陸のモンゴル平原を中心とした地域で繁栄した、遊牧騎馬民族国家でした。匈奴は2世紀から5世紀にかけて衰退の一途を辿りましたが。

北匈奴は西へ向かって、欧州を荒らしまわるフン族になり、これによって5世紀のゲルマン民族の大移動が起きたのでした。

南匈奴後漢に寄り添って生き延びたものの、やがては群雄割拠の中国大陸の諸勢力に飲み込まれ、一見しては消失してしまうのでした。

5世紀に中央アジアで白匈奴(エフタル)が出現しますが、歴史上で6世紀頃には、中国大陸から匈奴の名は消えてしまう、これは歴史の定説です。

と思いきや、実は匈奴は日本列島の蝦夷の中に入り込んでいた、としたら、匈奴の郷土が新たに判明したということになり、にわかに匈奴まつりが始まってしまいます。

 

東日本の蝦夷は中国史書「宋書」では「毛人」とあって、通説的には縄文人の末裔だとか、アイヌ人のことだとかで、別名を毛野氏と言いました。

毛野氏というのは群馬、栃木、埼玉付近の豪族で、崇神天皇の皇子である豊城入彦命が始祖と「日本書紀」にいわれるのですが。これは天皇が、蝦夷支配下に置いたことを表しているようです。

私見としては、日本武尊の頃の蝦夷とは、縄文人の末裔、縄文人の末裔としてのアイヌ、の両者を中心とした勢力と思ってたのですが、つい先日、考えが変わりました。

特に東日本の「中部地方~関東地方」までの蝦夷と、「東北地方~北海道」までの蝦夷はちょっと違ったかもしれない。

しかも中部地方~関東地方の蝦夷には匈奴が入ってた、と思うわけなのですが、その解説をします。

 

 

日本書紀の記録から関東の匈奴を導く

 

蝦夷生活様式と風貌、それに気質を調べますと、どう見ても匈奴です。本当にありがとうございました。

ではその根拠が記してある、『日本書紀』(宇治谷孟・訳)を見てみよう。日本武尊の東征に際し、景行天皇は次のように仰せになった。

「いま東国に暴れる神が多く、また蝦夷が全て背いて、人民を苦しめている」

「かの東夷は性凶暴で、陵辱も恥じず、村に長なく、各境界を犯し争い、山には邪神、野には姦鬼がいて、往来もふさがれ、多くの人が苦しめられている。その東夷の中でも、蝦夷は特に手強い。男女親子の中の区別もなく、冬は穴に住寝、夏は木に棲む。毛皮を着て、血を飲み、兄弟でも疑い合う。山に登るには飛ぶ鳥のようで、草原を走ることは獣のようであるという。恩は忘れるが恨みには必ず報いるという。矢を髪を束ねた中に隠し、刀を衣の中に帯びている。あるいは仲間を集めて辺境を犯し、稔の時をねらって作物をかすめ取る。攻めれば草にかくれて、追えば山に入る。それで一度も王化に従ったことがない」

このあと蝦夷は、東征した日本武尊によってフルボッコにされてしまいます。

 

この一文の中で、東日本の蝦夷匈奴であるとの仮説に、最も信憑性が感じられるのが「血を飲む」という情報です。

血を飲むといえば、吸血鬼ドラキュラ伯爵というのはよく知られてますが、この人は実在の人物じゃなくて、作家、ブラム・ストーカーによる1897年発表の小説「ドラキュラ」内の、架空キャラなのですね。

ヴラド3世という実在の人がいまして、その人のニックネームがドラキュラだったので、その名前だけ拝借して、吸血鬼ドラキュラを小説に生み出したということだそうです。モデルのヴラドさんが、血をたしなむ方だったわけではないのです。

でもドラキュラの舞台がルーマニア、というのはなにか根拠になったものがあるんじゃないかと思いましたが。

実はルーマニア地方は、紀元5世紀頃、スキタイという騎馬民族の居住地だったのですけど、このスキタイは、血を飲む風習を持ってた民族なのですよ。

この血を飲む伝統を忠実に踏襲してきたのがドラキュラという設定が、あったのかなかったのか、と妄想してみたりするのですが・・・。

つまりスキタイ・サカと同じ風習を持っていた匈奴は、この血を飲む文化も踏襲していたとしておかしくないということになりそうです。実際匈奴にはスキタイ・サカ出身の人々も、入り込んでいたでせう。

 

ウィキペディアの髑髏杯のページを見ると、こうあります。

紀元前8世紀~紀元前3世紀にかけて現在のウクライナに割拠した遊牧民族スキタイの習俗に「頭蓋骨は近親者か最も憎い敵に限り、髑髏を眉の下で切り牛の生皮を貼って杯として用いる」とあり、これが最も古い髑髏杯の記録だと思われる。

プリニウスは『博物誌』に、ドニエプル川の北方部族が髑髏杯を用いる事や、夜間に泉から汲んだ水を髑髏に入れて患者に飲ませるという癲癇の治療法を記している。

イッセドネス人は親の葬儀で喜びを表し、集まって祝祭を催す。そして故人の遺体を引き裂いて家畜の胎児の挽き肉と混ぜ合わせ、宴に来た人々にふるまい、食べつくす。頭蓋骨は磨き上げて黄金を巻き、杯に使う。これらの行為はイッセドネス人における最大の親孝行であるという。

紀元前2世紀、モンゴル高原に割拠した遊牧国家匈奴の老上単于は、隣国(敦煌付近)である月氏の王を討ち取り、その頭蓋骨を盃にした。以後、この髑髏杯は代々受け継がれ大事な時に使用された。

516年、高車王の弥俄突(在位:508年 - 516年)は柔然可汗の醜奴(在位:508年 - 520年)と戦い敗北した。醜奴はその両脚を駑馬の上に繋いでこれを殺し、その頭蓋骨に漆を塗って盃とした。

ウィキペディアの髑髏杯

 

・・・わかりますたね。

匈奴はスキタイ同様に髑髏杯を作って酒を飲んだ。スキタイ出身の郷土人なら、血を飲んだかもしれませぬ。

そういえば日本の戦国武将の織田信長も、髑髏杯を作ってたとか言います。まあ信長は第六天魔王だから、髑髏杯くらいは朝飯前だったとか?ウィキペディア髑髏杯に詳しくありますので。あと掛川城に、髑髏杯が展示されてます。こちらのサイトで見れるので。

 

ともかく東国の蝦夷の「人の血を飲む風習」が本当ならば、東国の蝦夷とは、ユーラシア大陸騎馬民族出身者だった、もしくは一部のそうした騎馬民族出身者が景行天皇にも知られてたと考えられることになります。

 

もう一つ気になる一文がありまして、

「攻めれば草にかくれて、追えば山に入る」

ですが、実はこれと同じような表現が「漢書匈奴伝第六十四」にあるのです。

「有利と見れば進み、不利と見れば退いて、遁走するを恥と思わなかった」

「毛皮を着て」の部分も、匈奴伝に同様にあるし、

「男女親子の中の区別もなく」のところは、匈奴が老人を敬わず、目上に対しても敬語を用いず、レビラト婚制度(兄弟が死ぬと、妻は残った兄弟の妻となる)という、匈奴の風習を記したものと思えます。

 

 

匈奴(きょうど)・狗奴国(くなこく)・毛野国(けのこく)

 

東日本に匈奴が住んでたその理由は、地名にも見られます。

邪馬台国卑弥呼に抵抗した狗奴国がどこにあったか、知ってますか。九州の熊曾、球磨郡?そういう説もありますが。違います。

実は狗奴国の位置は『後漢書』が正しいと思われます。

後漢書』にはこうある。

「女王国の東千里、海を渡ったところに狗奴国あり」 

女王国の本拠地は、九州だったと言って、個人的には間違ってないと考えますけど。

その理由は、女王卑弥呼の名前自体に日向(ひむか)が含まれるという意見は尤もであるでしょう。

国史書の「魏志」の記録を読み解くと、女王の都・邪馬台国は、武器で守護された土地ということが書いてあります。これに符合するのは、武器大量出土地の北部九州というわけなのですよ。

残念なことに近畿地方では遺跡から武器がほとんど出土しないです。

九州の東の海を超えた土地といえば、本州か四国ということになります。つまり本州の近畿地方より以東は、ほとんど狗奴国の範疇にあったのではないかと考えてます。

北陸道は「くぬが道」と読むの知ってましたか。

日本書紀」にあります。くぬがの「くぬ」は、狗奴(くな)がなまったものだとすれば、北陸道は狗奴国の範囲だったことになります。 

関東地方の毛野(けの)も、狗奴の転訛。上野国(こうずけのくに)は群馬県のことで、下野国(しもつけのくに)というのは栃木県のことで、両者は「けの」を含んでます。

京都市の久何神社(久我神社)も、静岡県袋井市の久努国造の久努も、滋賀県長浜市の波久奴神社もやはり狗奴の名の名残であろうと思われます。神社の名前に、狗奴国が反映されてたのです。

関東地方を北から東へ流れる鬼怒川というのも、実は狗奴川のことなんじゃないかと思います。こうして狗奴に一致する大きな地名が多いのは、偶然とは言いがたいほど多くあるのでした。

 

 

崇神天皇に抵抗した武埴安彦=狗奴国王卑弥弓呼

 

ブログの右側で宣伝してる2つの拙著に度々書いてましたが、武埴安彦というのは、狗奴国王、卑弥弓呼と同一人物なのです。名前からも分かります。

埴安彦 Ha-Ni-安-Hi-Ko

卑弥弓呼Hi-Mi- -Ku-Ko

 

卑弥弓呼は、卑弥安弓呼だったんじゃないかと思います。

で、この埴安彦の名前にも匈奴が見え隠れしてます。

埴 Ha-Ni

匈奴Hu-Na (Ku-Na)

狗奴Ku-Na

匈奴は地域・時代・民族により呼称が異なり、フン、フナとかいいましたので、武埴安彦はなにか匈奴と関係あるのかもしれません。

ところで、こういうフンとかフナとか言うと、歴史的名称でさえも、汚いものを連想してかけあわせる人がいたりするのですが、そういう悪魔の悪戯的な陵辱は、この場面ではまったく必要ありません。

そういえば古事記によれば、武埴安彦(建波迩夜湏毗古)の父は孝元天皇なのですが、母親の名前も波迩夜湏毗売で、波迩がやはり匈奴を表していて、この女性が匈奴人だったのかもしれんです。もちろん推定ですが。

 

 

狗奴(くな)国は鐘(かね)国

 

銅鐸というのは近畿地方を中心として日本列島に分布し、九州のほうでは出土例が少なくなってます。つまり私の言う狗奴国の位置と、銅鐸出土地の中枢は、重なっているのですね。そしておそらく銅鐸というのは、倭の時代にあっては「かね」と呼ばれていたかもしれません。そうすると、

狗奴国 Ku-Na-国

鐘国  Ka-Ne-国

ということになり、狗奴の発音と鐘の発音をかけあわせている。つまり狗奴国は、銅鐸(鐘)を大量に用いた、カネ国だったのだと。

 

 銅鐸分布図

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考古学GISデータベースより

 

 

前方後方墳匈奴の墓形態だった?

 

前方後方墳というのがありまして、四角と台形がくっついたものです。これは東日本を中心として特に多く分布しています。

日本最古級の前方後方墳はどこにあるのかと言うと、静岡県沼津市の辻畑古墳(3世紀前半)です。道路建設予定地の上にあって、貴重な最古の前方後方墳なのに、消失寸前だったんですけど。今はどうなってるんですかね。

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グーグルマップにて確認

 

京都府にも同時期の神郷亀塚古墳だとか、岡山県岡山市のの都月坂古墳、愛知県一宮市の西上免古墳(消失?)など出現期の前方後方墳があります。

 実はこの前方後方墳は、日本固有の形態ではなかったのですね。韓国にも北朝鮮にも無く、ではどこに原型があったかというと、

モンゴルに、ノイン・ウラ遺跡というのがあり、匈奴の積石墓(ノヨン・オール24号墳)があるのですが、これが誰が見てもまるっきり前方後方墳の形状をしてると分かるのです。

こちらのサイトにあるのですが、

匈奴人の墓はどう見ても前方後方墳です。前方後方墳が東日本に集中しているのは、やはり匈奴系人種の墓地だからと考えると、ここまでに記してきた「東日本の蝦夷匈奴」という仮説も現実味を帯びてくる。

 

 

ズボンは騎馬民族由来

 

ツイッターで呟いてるかたがいたので、思いつきましたけど。

そもそも日本神話の中で、伊邪那岐命は袴(はかま)をはいてるのですね。いわゆるズボンですけど。

ズボンの起源は騎馬民族なので、要するに伊邪那岐命がズボンをはいてるのは、先祖が馬に乗ってた騎馬民族だからで通じてしまいますけど。

 

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以上のように、倭人の支配階級が騎馬民族だった、匈奴が東日本の蝦夷だった、という証拠のいくつか、取り上げました。まだ見つけたものがありますけど、それはいずれどこかで。

個人的には、日本古代史については、現在まかり通っている定説のほうがおかしいと感じる日々です。誰も気にしないような些細な情報でも、頭に取り込んで比較検証をすることで、真実に近づけると思われます。

 

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