最近のチベット情勢
引用
弾圧抗議で焼身自殺のチベット族に「勝手に死ね」…中国がダライ・ラマ14世の80歳誕生日で厳重警戒
チベットの精神的指導者、ダライ・ラマ14世が7月6日、80歳の誕生日を迎えた。中国当局は禁足令を出すなどこの日に向けて警戒を強化したが、チベット族は各地で14世の傘寿を祝ったという。一方、弾圧に抗議して焼身自殺したチベット族が約140人に達する中、当局は「勝手に死ねば良い」と言い放つなど、人命軽視の共産主義体質をあからさまにしている。
中国指導部「闘争長期化を覚悟せよ」 チベット自治区50年式典で経済発展を強調
「50年間で住民の生活水準は大幅に向上した」
「民族分裂勢力に痛烈な打撃を与えるように」
焼身自殺って、奨励されてるわけでもないだろうに。世界に訴えかける材料になるにしても、なんか、もったいない気がするのだが。
ちなみにこの記事をここ数日のあいだ書いていたのだが、今日の正午前にこんなニュースが。
パワハラで警部補処分=LINEで「死んでしまえ」―滋賀県警 (時事通信) - Yahoo!ニュース
う~む、「勝手に死ね」「死んでしまえ」か。また執筆中にタイミングぴったり。
○いつも助かっております
羌と吐蕃
チベット高原は先史時代のことは分かっていないし、先史時代の遺跡も見つかってないらしい。チベット高原に先住民はいたんだろうか。
チベット高原の端っこの方に、紀元前4世紀頃に「羌」があらわれる。
中国では「チャン族」と言ってるが、羌の元々の発音は。「学研緩和大字典」によれば「kiang」だった。漢音だと「コウ」、呉音だと「キョウ」になる。「学研緩和大字典」の古訓では「つつか・つつかなき」。この古訓はあとで重要な意味を帯びてきます。
羌がチベットのルーツの一つだと言われているとか。
羌は「羊を放牧する人」の意味(とにかく学研漢和大字典)なので、西アジアの遊牧民が流れてきて、羌になってると考えられます。羌がいたのはチベット高原というよりは青海省のあたりでした。
羌は2世紀頃には羌、西羌、氐などにわかれた。
4世紀には吐谷渾という鮮卑系遊牧騎馬民族の人々が内蒙古から征西してきて、チベット高原の東部に落ち着き、羌の人々と融合しているとか。
チベットの語源になっているのは5世紀にチベット高原に出現する「tubut(トボット)」の名。後に「吐蕃(とばん)」の漢字が当てられた。
チベット高原全域を含む吐蕃を最初に統一したのは、6~7世紀のソンツェン・ガンポという。この頃に仏教がネパールのリッチャヴィ朝と唐から入ってきている。
チベット人は仏教を受け入れる以前から、天孫降臨神話を持っているということであるから、彼らのルーツが倭人と関係するのは明らかでした。
(1)ニャティ・ツェンポ降臨神話
ニャティ・ツェンポが降臨したという伝説のもっとも古い記事は、敦煌写本P・T1286号のツェンポ王統譜だろう。
「天神が天空から降りてきた。父神六君の子、すなわち三兄三弟、そしてティ(Khri)の七人のツェンポのうちのひとり、ティイ・ドゥムツィグ(Khri’i bdum tshugs)がいた。ティイ・ドゥムツィグの子がティイ・ニャティ・ツェンポ(Khri’i nyag khri btsan po’)である」
「ヤブ(Yul yab)の主、ヤブ地方に降臨する」
「はじめに神山ギャンド(Gyang do)に降臨したとき、須弥山は深々と頭を下げ、林ははしゃいで歓迎し、泉は清冽に迎え、石はみな腰を曲げて挨拶をした。ついに吐蕃は六ヤク部(Bod ka g-yag drug)が治めるようになった」
「ティイ・ドゥムツィグの子デ・ニャティ・ツェンポ(lDe nyag khri btsan po)はユルヤブの主となった。ヤブに降臨し、天神の子が人間の王となった。のちのちまで人々は王が天宮に戻っていくのを目撃した」
チベットとペルシア 宮本神酒男 訳
ところで遊牧民というのはいつ頃から始まっているかというと、紀元前9世紀ころの南ロシアのキンメリア人ではないかとウィキペディアには書いてあります。その後の紀元前8世紀以降、スキタイ(サカ)が遊牧騎馬民族の文化を東へと運んでいるんでした。
しかし手元の「旧約聖書」を見てみると、アブラハムの時代からすでに遊牧民は始まっているのでした。アブラハムはイラクのカルデヤのウルの地にいて、そこからカナン(シリア・パレスチナ)へ移住したんでした。アブラハムの時代が紀元前のいつ頃だったかというと、これもウィキペディアにまとめられてますが、
紀元前21世紀で、正確には紀元前2091年。
多分この年数は、誰かが調べたのだと思いますが、アブラハムの実在年については紀元前15世紀頃という説もありです。
「旧約聖書」が本当なら、紀元前21世紀~紀元前15世紀頃には、アブラハムの一族により遊牧民としての暮らしが行われていたということだと思われました。
つまりウィキペディアの1つのページだけ見ていては、惑わされてしまうますよ、ということも理解されます。
そういえば天孫降臨については、「旧約聖書」の関係で、グリゴリという堕天使軍団200人が、天からヘルモン山に降臨したという話があり。
グリゴリ(Grigori)あるいはエグリゴリとは旧約聖書偽典『エノク書』に出る堕天使の一団。原義は「見張る者(ギリシア語: egrḗgoroi (ἐγρήγοροι))」という意味である。
『エノク書』第6章によると、ヘルモン山に200人の天使たちが集まった。彼らのリーダーはシェムハザで、そのほかアラキバ、ラメエルなど20名が天使たちの長であった。彼らは互いに誓いをたて、人間の娘たちを妻にめとった。その際、人間に禁じられた知識(呪術、薬草、剣、盾、胸当てなど武器の作り方や腕輪、眉毛の塗り手入れの方法の仕方、占星術など)を地上の人間たちに教えたが、それによって男は武器で争うことを、女は化粧で男に媚を売ることを覚え、地上には不敬虔や姦淫など様々な悪行がはびこることになったという。
堕天使と女性たちとの間には身の丈3000キュビト(1350メートル)にもなる巨人(ネフィリム)が生まれ、彼らは地上の作物はおろか、鳥や獣、人間を食い尽くし、最後には巨人同士での共食いまで始めた(7章)。
やがて滅び行く人々の声が地上に届き、ミカエル、ガブリエル、ウリエル、ラファエルの四人が地上を見下ろしては暴虐が行われているのを見た。神は大洪水によって地上のものを滅ぼすことにし、ラメクの子ノアとその家族だけは助けるため、ウリエルを使わした。神はラファエルに命じてアザゼルをダドエルの穴に閉じこめさせ、ガブリエルに命じて堕落した者たちを相争わさせ、ミカエルに命じてシェミハザとその仲間たちを大地の地下の下に永遠の審判の日まで閉じ込めさせた(10章)。
エノク書では、ヘルモン山はグリゴリ(見張り)と呼ばれる堕天使の一団が地上に降り立った場所である。彼らはこの山上で、人間の娘たちを娶りここに戻ろうと誓い合った(エノク書 6)。
日本やチベットの天孫降臨というのが、もしかするとアチラから影響を受けているとしたら・・・。
中東の遊牧民地帯から東へ移った羌族は、タクラマカン砂漠のあるタリム盆地の付近で人種交配が進んで、アジア的風貌になってるということでせう。
チベット人の先祖が遊牧民ということなら、羌の古訓である「tutu(つつ)」は「タタール」の「tata」に似てるということで、合っているかもしれないすね。タタールはトルコから東夷までに共通して用いられた遊牧騎馬民族の別名みたいなものなので。
そういえばトルコに紀元前7世紀頃、タバルという国があったんですよね。じつはこのタバルが、チベットに大いに関係してるのではないかと思われるのです。
タバルとチベットには知られざる関係がある?
Tabal - Wikipedia, the free encyclopediaより
タバルはトルコのカッパドキアのある場所、アララト山の南西部の付近にあった国なのですが。ヒッタイトが滅亡した後に起こった新ヒッタイト王国というのが通説だとか。元はTibareni(チバレニ)という人々だという。
タバルがもしかするとtubutの起源かもしれない、と思ったのは次の要素から。
タバル チベット(羌・吐蕃)
tabal tubut 名前似てます
tabal 吐蕃(toban) 日本語読みにすると、もっと似てる
tibareni tibet tibで一致する
遊牧民 遊牧民 どちらも遊牧民の土地
地底都市 地底都市 どちらも地底都市
タバルはカッパドキアの土地で、カッパドキアには地底都市がありますね。
チベットの地底に「シャンバラ」という理想郷があるという伝説がまことしやかなのは、よく知られたオカルトチックな話です。本当なのかどうかは公式的には確認されてませんが。
つまり以上の理由から、結論としてはトルコのタバルが移動してきたのが、羌であり、初期のトボット・吐蕃なのではないかと。これはチベットが仏教国になる以前のことですが。
このことはtabalと吐蕃が似ているだけでなく、遺伝子的にも合っていることです。
素人なので適当なこと言いますですが、もしかするとチベットのY染色体のD系というのは、遊牧民の移動と共に西からもたらされたとしたら?
D系っていうのは聞くところでは定説上では、5万年前に中東のE系から分岐して中央アジアに来てるとか。
あるいは、5万年前に中東→チベットという移動があった後、3000~2000年前にも中東→チベットという民族の移動があって、区別がついてないということかも。
それで神話やら遊牧民やら国名やらが似通っていることの説明がつくんですけど。
羌は遊牧民なのでしたが、すぐちかくには烏孫と月氏がありました。
羌は青海、月氏は当初は祁連山脈の北に、烏孫は最初は敦煌の南あたりでした。図で表すとこう。
googlemap使用
この三者が同じ祁連山脈の周辺に固まっていたのは、三者とも元々はメソポタミア地方にいた同郷だったからといことで間違ってなさそうな気がします。
ということで、ここに述べた内容は、チベットがtabalを起源とするという想像を前提とした話ですので。チベット人には寝耳に水な話でした。
それでこの話は、もう少し膨らませることが出来て、チベットと日本の丹波の関係もわかってきました。続きを書きますので。
人気ブログランキング