たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅勤務の自営業。

古代皇族の殉死と埴輪のこと。2

「騎馬民族国家」から引用しますと、スキタイについての記録はヘロドトスによるものがあり、王の埋葬の1年後、侍臣50人と良馬50頭を絞殺して遺体の内臓を摘出、掃除し、もみがらを詰めて縫い合わせ、それらを円形に王陵の周囲に立て──とあります。

全国に復元された古墳がありますけれど、それらの復元された古墳の頂上部には、古墳を取り巻くように埴輪が配置されています。それは発掘調査の結果から再現されたものだそうです。埴輪には人型だけでなく馬型もあります。他には家型、キヌガサ型、靫型など。

スキタイでは人や馬の遺体で造った人形を用いて並べ立てたようなので、日本書紀での生き埋めによる殉死の記述よりも、古墳頂上部の発掘調査と復元の結果のほうが、見た目的にはスキタイ王の埋葬後の陵墓の見た目に近いのかもしれないです。

だからといって、日本の天皇家がスキタイの流れを完全に受け継ぐとは言いませんが。紀元前8世紀から3世紀にかけて、ユーラシア大陸の西から東まで数珠つなぎに隣接し合う騎馬民族や遊牧民族同士が、互いの影響を与え合い、またときには征服や融合を繰り返しながら、その民俗文化風習の流れは徐々に緩やかに、東アジアの最果ての日本列島まで到達したんだとおもわれるのです。

日本列島の数万基もある数多の古墳からは、未だに殉死の証拠となるような、大勢の遺体の埋められた古墳は見つかっていないようなので、日本書紀の殉死の記述が完全に正しいかどうかは、今後の出現期古墳の新たな調査結果にかかっています。やはり古代史系好事家にとっては、箸墓古墳など未調査の出現期古墳の調査が待たれるところです。

ところで、倭国での殉死の記録は、日本書紀が最初ではありませんでした。
魏志倭人伝には「女王卑弥呼の死後、直径100歩余の大きな墓を造って、男女の奴隷を100人以上も殉葬した」との記述があります。
これは明らかに、日本書紀の中の倭彦命についての記述と、全く同じ俗習なことがわかります。日本書紀魏志倭人伝の該当する両者を、わかりやすく並べて比較してみますと、

魏志倭人伝「女王卑弥呼の死後─直径百歩の墓を造り─男女の奴隷百人以上も殉葬した」
日本書紀 「倭彦命の死後─身狭の桃花鳥坂の墓に葬り─近習の者を生きたままで御陵の周囲に埋めた」

このように、日本書紀魏志倭人伝の記述は一致しています。日本書紀魏志で同じ風俗を記録していたことになります。

それから、この魏志倭人伝の記述を元にすると、卑弥呼は垂仁天皇以前の人ということがわかります。前述したとおり、垂仁天皇は自身の統治時代に、死後の殉葬を廃止しているからです。卑弥呼は崇神天皇の統治した時代より前に生きていた人だとわかります。

もう一つ気になるのは、倭迩迩日百襲媛大市墓(ヤマトトトヒモモソヒメオオイチボ)についてです。倭迩迩日百襲媛大市墓は通称箸墓古墳といって、最新の炭素年代測定法などによる調査によると、だいたい西暦230年から250年頃の築造ではないかとされているようです。それで直径100歩という魏志倭人伝の記述にも近いことから、卑弥呼の墓説が有力になっています。つまり倭迩迩日百襲媛は卑弥呼と同一人物という解釈にもなってきます。

倭迩迩日百襲媛については思うところがたくさんあるのですが、その中で今回の卑弥呼死後の殉死というテーマに沿う話としては、彼女の諡号、あるいは諱(本名)から、一つのヒントが導き出されると思います。
つまり、倭迩迩日百襲媛の「百襲媛」とは、卑弥呼が殉死によって100人を道連れにしたことを示す漢字を当てたのかもしれないという説です。

次項、「倭迩迩日百襲媛の謎」に続く。