長脛彦と安日彦は、日本の古代に登場する兄弟なんです。
じつは長脛、安日と全く同じ名前は、中央アジアにも存在していました。
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○いつも助かっております
倭の安日彦
安日彦(あびひこ)は中世日本神話に伝わる伝説の人物の一人。安日王とも。
鎌倉~室町期成立の『曽我物語』に蝦夷の祖を流罪にされた鬼王安日とする伝承が記載されている。長髄彦の兄とされ、彼と共に青森県の弘前に逃れたとも、単独で津軽地方に流されたとも伝わる。ただし古事記や日本書紀に安日彦の名は乗っていない。
ちなみに文献学的には、長髄彦の兄とする記録よりも、「安日長髄彦」という名で同一人物であるとする記録のほうが古く、後者が原形であると推測される。
長髄彦一人が大和で死なずに東北に落ち延びたという伝承は塩釜神社にもあるが、この塩釜神社の伝承も含めて、長髄彦(またはその兄、または兄弟2人)が津軽に逃げてきたという伝承は、一般的には中世以降の創作と考えられている。
小昆弥の烏就屠が死ぬと、子の拊離が即位したが、弟の日弐に殺される。日弐は逃亡し、康居に依った。漢の遣使者は拊離の子の安日を立てて小昆弥とした。安日は貴人の姑莫匿ら3人に日弐の一味に紛れさせ、これを刺殺させた。
後に安日は降民に殺され、漢はその弟の末振将を小昆弥とした。
この2名の安日は、日本と中央アジアで記録されていた、完全な別人と見られるんです。同じ名前、同じ漢字を使っているのは、個人的にはなにか意味深に感じたりします。
倭の安日は、長脛彦の兄であるか、または長脛彦の別名であるというのですけど。
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という記事を書きつつ在宅業務を進めていたら、男子中学生が「アッハッハッハ!」と大爆笑を家の前を通る時だけ聞かせて去って行った(17:31)。
直後にクラクション6回ほど家の前で連発する車が来た(17:47)。
いつもの嫌がらせ班が派遣されてきたようだった。
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では長脛彦(長髄彦)についても一考してみます。
じつは長脛彦という名前についても、中央アジア由来の名前なのですが。
倭の長脛彦
『古事記』では那賀須泥毘古と表記され、また登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ)、登美毘古(トミビコ)とも呼ばれる。神武東征の場面で、大和地方で東征に抵抗した豪族の長として描かれている人物。安日彦(あびひこ)という兄弟がいるとされる。
金鵄が舞い降り神武天皇に平定される長脛彦の軍(右側)
中央アジアの長脛国
それからそういえば中国の秦~漢の頃の地理書「山海経」には、中央アジアに「長脛国」があるとありますが。長髄彦は「古事記」では「長脛彦」と書くのです。
これは長脛彦登場する神武東征の舞台は中央アジアだよと、太安万侶が情報を込めていると、考えられました。ナガスネという音を表すなら、那我須根とでも書けばいいのに、なんで長脛国と同じ文字を使ったか、ということですよ。
小林恵子著「三人の神武」にはこうあり。
ナガスネヒコとは珍しい名だが、「山海経」(大荒西経)には、西北海の外、赤水の東に「長脛」の国があると記している。(中略)
西北海をカスピ海、赤水をヴォルガ河と仮定すると、その東はまさにスキタイの発祥の地である。(中略)
ナガスネヒコと呼ばれるにふさわしい巨人型の民族が住んでいたのかもしれない。
小林氏は、長脛彦とは、スキタイの長脛国の地を故郷とする人だと位置づけている様子。
赤水(ヴォルガ河)の東だと、中央アジアのカザフスタンということになるんだろか。
そういえば、長脛といえばイギリスの長脛王。
エドワード1世(英語: Edward I, 1239年6月17日 - 1307年7月7日)は、プランタジネット朝のイングランド王(在位1272年11月17日 - 1307年7月7日)。
渾名は "Longshanks"(ロングシャンクス、「長い足」「長脛王」、身長が190cmあったため)および"Hammer of the Scots"(ハンマー・オブ・ザ・スコッツ、「スコットランド人への鉄槌」)。
13世紀の人なので関係ないですけど。190センチを超える大男なので、長い足の王、長脛王ということで、長脛彦も名は体を表すというわけなのかも。
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