たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅勤務の自営業。

崇神天皇の120歳が「短命」の謎1

日本書紀古事記の翻訳本を、一日に2度3度と手に取るので、おそらく年間で読む回数は膨大になってると思いますが、それでも良くわからないことはわからないままです。

今回はその分からなかった話のなかから、ある程度わかってきた「崇神天皇が短命だった」という話の謎についてです。

日本書紀によれば、崇神天皇は120歳まで生きていました。120歳といえば、人類の歴史上で正確な統計が始まって以来、世界記録レベルの最長寿命になるわけですが、それでも日本書紀によれば、崇神天皇は短命だった、らしいのです。

ちなみに寿命の世界記録は、あるフランス人女性の122歳ですから、崇神天皇が120歳というのは、3世紀当時の倭人魏志倭人伝にある通り、80年から100年を生きるものが多く見られたとしても、120歳に達するのは、極めて稀有な長老の出現だったといえます。それが事実かどうかはともかく。

3世紀の倭国の人口は、陳寿の編纂した魏志倭人伝から推計が可能です。
対馬国には家が千余戸と書かれて以降、一大国(壱岐)に三千余戸、末盧国に四千余戸、伊都国に千余戸、奴国に二万余戸、不弥国に千余戸、投馬国に五万余戸邪馬台国に七万余戸と記されてます。

これらの諸国は魏志倭人伝に登場する一部の国の戸数であって、当時の全国の人口を知るには至りません。けれど、それでもわかっている限り、北部九州という当時の大陸との接点を担う重要な拠点、末盧国・伊都国・奴国の3国に、合計二万五千戸余りの家があったと記録されるのは、3世紀当時の倭国の人口を推計する上で貴重な資料と理解されると思います。

倭国の住宅は基本的に木造一戸建ての竪穴式茅葺き土壁の住居で、囲炉裏が中央に据えられ、恐らく二世代以上の同居で、部屋がいくつかに区画されてる場合もあったようです。
倭国は一夫多妻制度、しかも子供を産む数が今より多かったと吟味すると、一世帯あたり平均5人以上が暮らしたかと思います。
3世紀当時、それでも恐らく日本列島全体の人口は、100万人には達しなかったと思われます。

或いは魏志倭人伝の中での「戸」という単位は、「人」の間違いではないかと思うところもあります。九州の北部沿岸の限られた狭小な範囲だけで二万五千戸というのは、やや多すぎる感があるのです。戸が実は人数のことであるならば、より整合性が取れるかもしれません。

いずれにしても、人口比で100歳以上の長寿に達する人の割合と人数は、1億2千万人以上が暮らす現在の日本より、ずっと低かった筈です。

社会実情データの百歳以上高齢者の年次推移によると、2010年の百歳以上高齢者数は男女あわせて44,447人。2011年は、男女合わせて47,756人で、人数はここ10年から20年で飛躍的に伸びているようです。しかし1963年の時点の百歳以上人口は、僅か153人でした。
寿命が伸びた現時点でも、人口十万人当たり百歳以上が50人程度で、1963年当時は十万人当たり10人にも届いていませんでした。

3世紀の倭国時代には、10万人当たり10人以下、倭国全体の人口が100万人だったとして、100人には届かなかったのではないかと思われます。

そんな中で、第五代孝昭天皇から第十三代成務天皇までの9世代の天皇の寿命がいずれも100歳を超えているのは、事実とすれば驚異的ですが、実際にはありえなかったと考えざるを得ません。

古事記のほうでの崇神天皇の寿命は168歳、垂仁天皇は153歳となっています。古事記の中で分かる限りの地上に降りた神様の最長寿命は、ヒコホホデミ命で、この神は580年高千穂宮にいたことになっており、実年齢は600を超えていたようです。聖書の創世記に目を移すと。アダムの年齢(930歳)や、メトセラ(969歳)、ノア(950歳)といった、150歳を大幅に超えるような、最初期の長寿の人々が登場します。神話の中の神に近い側の人間までとはいかないものの、崇神天皇の年齢は、現代社会では実現不可能な、かなり神代の神様の側に近い寿命の長さになってるかと思います。

一目瞭然ですが、崇神天皇の寿命は水増しし過ぎなわけです。記紀では、あくまでも神武天皇元年の前660年を、絶対に動かすことが出来ず、それに呼応させるため、数少ない歴代天皇が長寿だったことにせざるを得なかった、ということと解釈されます。

2に続く