たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅勤務の自営業。

正確な方位を知ってた?3世紀の倭人。1

3世紀、とくに3世紀の前半(247年頃まで)、卑弥呼の生きていた時代の倭人は、東西南北の方位の概念を正確に把握していたかどうかを、検証します。

邪馬台国の候補地は80カ所以上もあるらしく、日本全国が邪馬台国候補なのですが、そのなかで最も歴史研究者の推挙が多いのが畿内説。

畿内には比較的、邪馬台国の条件が揃っています。魏志倭人伝に書かれた帯方郡から伊都国以降の不弥国、投馬国、邪馬台国へ至る「距離」が最も無理なく当てはまっているんではないかと言われてます。
発掘調査では巨大な神殿跡が見られますし、何より巨大古墳の築造地としては日本列島で他に比類ないほど巨大古墳の集積が顕著です。箸墓古墳や黒塚古墳、中山大塚古墳などの出現期古墳は、ちょうど卑弥呼が存命中の築造であるとされます。畿内邪馬台国そのものだと言われて当然な条件です。

しかし邪馬台国畿内説にはいくつか問題があるそうです。例えば3世紀前半期の鉄器や各種遺物の出土が、北部九州に比べて少ないことです。逆に言うと北部九州での鉄器の出土が圧倒的らしいです。狗奴国と争いが起きたのにどうして畿内には鉄器の出土が少ないかというところにも繋がります。
列島を平定してまわった四道将軍が、卑弥呼の時代であるとするなら、本拠に最も武器が集まっていて当然であると思われるので、畿内の武器の少なさは邪馬台国畿内説の否定要素のひとつになります。逆に言うと鉄器出土の多さは、九州説の肯定材料です。

また、魏志倭人伝では邪馬台国は伊都国の東南に奴国、その東に不弥国、その南に投馬国、その南に邪馬台国とあって、邪馬台国は明らかに、現在の福岡県の南という記述になっていました。
古代には北部九州から見て、「畿内の方角が南だった」とする意見も多いのですけど、これだと辻褄が合わなくなります。やはり太陽は東から昇って西に沈むのは基本的なことで、これを古代の中国人と交流もあった、船を操舵する海洋民族の倭人が知らないことは、大洋を航海する上では致命的だと思われるからです。

後漢書でも魏志でも同じように、「倭は韓の東南大海の中」とあって、ここでの韓は馬韓のこととされてますが、韓から東南に直線を引くと明らかに延長線上は九州になります。畿内は真東にちかく、奴国(福岡市)と不弥国の南という記述には矛盾します。

ただ邪馬台国九州説で説明がつかないのは距離の問題で、不弥国から投馬国までは南へ水行二十日、さらに邪馬台国まで南へ水行二十日+陸行ひと月となっていて、これをまともに解釈すると、邪馬台国は海の中にあったことになってしまいます。実際邪馬台国は九州より南の太平洋の島々とする諸説もあります。

ということで、まずはあらためて古代中国人がどの程度、極東アジア地域の方位の正確度を認知していたかどうかを検証してみたいと思います。

検証の方法は簡単なもので、魏志倭人伝に書かれている、方位に関する記述を抜き出していきます。魏志のほかに、中国正史の中で明らかに卑弥呼の時代を記している後漢書、さらに初期の倭国について書いている宋書の中の方位に関する記述も抜き出します。

古代の中国人は、ある程度正確に方位を知っていた筈なので、方位が間違ってるというところに以前から疑問をもっていました。これで改めて気づくことが有るかもしれません。
また、日本書紀のなかからも、方位に関する記述を抜き出してみたいと思います。
これの比較によって、倭人がどの程度方位をわかっていたか、邪馬台国はどこかの判断材料にもできるとおもいます。

この他にも、幾つかの検証方法を用意しました。

2に続く