たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅勤務の自営業。

古代皇族の殉死と埴輪のこと。1

11代垂仁天皇の時代(西暦300年前後か)に、長く続いたのであろう一つの風習に終止符が打たれ、また新たな文化の始まりがありました。

それは殉死(殉葬)の終わりと、土物(埴輪)の始まりです。
古代の倭人の皇族の埋葬の際に、殉死、つまり生前に親しかった身近な者を集めて、御陵に穴を掘り、彼らを生きたまま土に埋めるという習わしがあったことは、日本書紀の中の垂仁紀に見られます。

日本書紀によれば、倭彦命が亡くなった際、身狭(むさ)の桃花鳥坂(築坂・つきさか)に葬られました。その際に近習の者を集め、全員を生きたままで御陵の周囲に埋めたとあります。生き埋めにされた人は日が経っても死なず、昼夜うめき声を上げていたと書かれています。
垂仁天皇は心を痛め、古い風習だからといっても、良くないことは止めようと言って、これによって殉葬は終わったということです。

その後、殉死の代わりに、人形を作って埋めるべきと提言したのが野見宿禰で、この人が埴輪の祖ということになっています。

考古学的調査では、埴輪の始まりは弥生時代後期後葉、つまり女王卑弥呼の死後から女王壱与の時代あたりでしょうか。吉備の地方首長墓である楯築墳丘墓などが最初とされています。
つまり日本書紀の記述が正しいのならば、楯築墳丘墓の埴輪は、野見宿禰の提言の後ということかもしれませんが。
しかし楯築墳丘墓の年代は比較的早く、3世紀の前半頃の築造とされており、野見宿禰が3世紀後半から4世紀初頭の人とすると、ちょと時代が合わない気がしないでもないです。しかし比較的同時代であることは確かなようでした。

楯築墳丘墓を築造した人々が、邪馬台国と倭の中枢の人々よりも早い段階で埴輪を用い始め、その後それを知った野見宿禰が、垂仁朝で楯築のように埴輪を導入すべきと提言したということならば、話は合いそうです。

ところでこの殉死という恐ろしい風習。実は倭国独自の風習ではありませんでした。江上波夫氏の著書「騎馬民族国家」のなかに詳しいのですが、これは騎馬民族的風習で、つまり北東アジアでいうと高句麗や扶余の王が亡くなった際に行われるものだそうです。
それで、その殉死はさらに、北東アジアで始まったものでもなく、日本からユーラシア大陸を遙か西に7000kmも横断した先の、東ヨーロッパ、黒海北岸域のスキタイが起源であるということでした。

2に続く。