次に日本書紀から引用します。(カッコ内は補足です)
神代
1・日神が産まれた三柱の女神を、葦原中国の宇佐嶋に降らせられた。今、北の海路(朝鮮半島への海路)の中においでになる。名つけて道主貴(ちぬしのむち)という
2・素戔嗚尊は、その子五十猛神をひきいて、新羅の国に降られて、曽尸茂梨のところにおいでになった。そこで不服の言葉を言われて、「この地には私は居たくないのだ」と。ついに土で舟を造り、それに乗って東の方に渡り、出雲の国の簸の川の上流にある、鳥上の山についた。
3・甕星を征する斎主をする主を斎の大人(いわいのうし)といった。この神はいま東国(あずま)の檝取(香取)の地においでになる。
神武天皇
1・塩土の翁に聞くと「東のほうによい土地があり、青い山が取り巻いている。その中へ天の磐船に乗って、とび降ってきた者がある(饒速日尊)」
2・その年冬十月五日に、天皇は自ら諸皇子。舟軍を率いて、東征に向われた。
3・戊午の年、春二月十一日に、天皇の軍はついに(高島宮から)東(難波崎方面)へ向かった。
4・(竜田から)さらに東のほうの生駒山を超えて内つ国に入ろうとした
5・「日に向かって敵を討つのは天道に逆らっている。(中略)背中に太陽を背負い、日神の威光を借りて、敵に襲いかかるのがよいだろう」
6・「見ればかの畝傍山の東南の橿原の地は、思うに国の真中である」
崇神天皇
1・夜明けに兄豊城命(崇神の子)は、夢のことを天皇に申し上げられ、「御諸山に登って東に向かって、八度槍を突き出し、八度刀を空に振りました」
2・「兄はもっぱら東に向かって武器を用いたので、東国を治めるのによいだろう(以下略)」
3・任那は筑紫を去ること二千余里。北のかた海を隔てて鶏林(新羅)の西南にある
日本書紀の中で、「今」と表現されている場合は、日本書紀成立時の720年のことを示してますから、神代の1番と3番は3世紀に該当する古代の出来事ではないかもしれませんが、一応抜き出しておきました。
ここまで引用した中国と日本の史書の、方位に関する記述を、分かりやすいように三国志魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝の方位に関する概略図と、日本書紀の方位に関する概略図として作ってみました。(クリックで拡大)
◯三国志魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝の方位に関する概略図
◯日本書紀の方位に関する概略図
次はこの概略図を見ながら、古代の方位概念について解釈してみたいとおもいます。
4に続く。