前回の記事では、天岩戸神話のルーツを探すと中国の少数民族の神話にたどり着くことを示しました。
そしてさらに追求してみると、中央アジアと西域(新疆)のパミール高原や崑崙山あたりに関連づいていることが、分かったりもするのです。今回はそんな話。
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天岩戸神話の神々
まずざっと岩戸神話に係わる八百万(やおよろず)の神さまについて確認。
記紀神話からリストアップすると、こうなっています。
思兼神(おもいかねのかみ):思慮をめぐらし、常世之長鳴鳥を鳴かせた
手力雄命(たぢからおのみこと):岩戸を開き天照大神を引き出した
天鈿女命(あめのうずめのみこと):舞い踊った
天児屋根命(あめのこやねのみこと):天香山の榊を振るった
天明玉(あめのあかるたま):八坂瓊之曲玉を作った
天日鷲(あめのひわし):木綿(ゆふ)を作った
太玉命(ふとだまのみこと):榊(さかき)を持って祈祷した
天糠戸神(あめのぬかどのかみ):あらとのかみ。鏡を作った石凝姥(いしこりどめ):天糠戸の子。天香山の鉄から日矛を作った
豊玉神(とよたまのかみ):玉を作った。龍宮の豊玉姫(乙姫)ともいう
山雷神(やまつち):玉飾りの榊を作った
野槌神(のづち):鹿屋野比売神。玉飾りの小竹(ささ)を作った
常世の長鳴き鶏:岩戸の前で鳴いた
もっといるかも知れないですが。神格や役割は省略しました。
この神々は、岩戸に引きこもった天照大神を外に出し、暗闇に支配され禍々しい状態となった高天原と地上を救うために行動しました。
しかしなんでこんな道具や儀式が必要だったのだろうか。
日本人のルーツは幾つかありますが、天皇や多くの豪族のルーツは大陸のはるか果てにありました。古代エジプトや中東、中央アジアの方面から日本列島に入り、土着の人々と融合してるわけです。
日本書紀や古事記の内容が「旧約聖書」とか古代中東方面の神話と似ていたりすることからもわかることです。しかしこれは正式な歴史学では、扱われることはほぼないようですけども・・・。
この天岩戸神話も大陸で発祥した神話と、日本の伝承が融合したものだったのだろうと考えています。
天照大神と天の岩戸神話のルーツが、中国南部の少数民族にあったことは前回に示しました。しかも岩戸神話は、さらに遡ると中東方面に到達するのは確実です。
名前を見ても分かることでした。例えば手力雄命(たぢからおのみこと)。
高天原の天岩戸の出来事で、重要な登場人物が手力男命です。天照大神が岩戸に隠れたときに、天手力雄命が岩戸を開けて引っ張り出したとか。
その時に岩戸を放り投げたものが、長野の戸隠山になったとか言います。まぁ、すると天照大神がいた天岩戸は、とんでもない巨大なものだったようですが・・・。
しかしこの名前を見ると、なんか中央アジア的だなと感じてしまいました。
天手力雄命と関係がありそうな場所
— たっちゃん@古代史研究+アート (@t7a7t0o1) 2022年11月30日
パミール高原のタシュクルガン
たぢからお
たぢからほ
塔什庫爾干
でブログまとめ
中央アジアのパミール高原に接する、中国新疆の標高3,240m地点。ここにタシュクルガン(塔什庫爾干)という街があるのですが。
手力雄命の名前に、似てるのですね。
新疆観光サイト - 塔吉克民族文化小镇タシュクルガン・タジク民族文化タウン
パミール高原は標高5,000mを超えて、世界の屋根といわれて天上界の象徴的な場所。崑崙は古代から中国では仙人の住む仙界と呼ばれ、不老不死の秘薬を持つ人頭獣身の西王母が住まう場所として、道教や神仙の信仰対象になった山でした。
パミール高原と崑崙山の間にある塔什庫爾干は、紀元前の前漢時代からある名前でした。当時からタジク人が住んでいて、地域の中心地だったとか。すると手力雄命って、タジク人に関係があるのかと。
長野の戸隠山については、ちょっと気になる妄想が出ました。
タシュクルガンのそばには、ムスタグアタ(慕士塔格山)という7,546mの山があるんです。
戸隠山はこの「塔格山」「塔格士山」の鏡写しなんじゃないかと思ったり。
つまり、慕士戸隠山。
慕士塔格山(ムスタグ山)
塔格士山 とがくし山(順番を入れ替えた場合)
塔格山 とかく山
これは両者が合わせ鏡であることの暗号、アナグラム、だったんではないかと。これ見ても日本神話が、あの辺に関係してることが分かる感じです。
そうすると手力雄が投げた岩戸は、塔什庫爾干の慕士塔格山の鏡写しである戸隠山、ということで。天の岩戸神話が、パミール高原、塔什庫爾干の慕士塔格山にもあったと、いうことになる。
戸隠山の周辺の地名を探して見ても、たぶん崑崙山あたりと一致しているものがあるんじゃないかと。たぶん田道間守とかもタジキスタン出身なんじゃないですかね。田道間(タジカン)なので。
このムスタグアタと戸隠山の関連については、実は他にも発見があるのです。別の機会でお知らせしたいと思います。
天岩戸神話の神々は中央アジア・西域の地名を冠する
手力雄命と崑崙の塔什庫爾干の関係は、偶然じゃないです。
と思うのは、天岩戸神話に登場する他の神々の名前もすべてが、パミール高原や崑崙山あたりの地名に似ているように思ったからでした。
神々を1柱づつ検証してみました。
天鈿女命(あめのうずめのみこと)
ウズなので、ウズベキスタンのウズです。古代からパミール高原には、ウズベク人がいました。ウズベク人の巫女なのかも。あの辺は独特な民族舞踊があるんですよね。パミール高原の巫女の踊りが、アメノウズメの踊りなのかと。
こういった要素が日本の土着の神や巫女と関連づいて、アメノウズメを形作ったような感じがします。
天児屋根命(あめのこやねのみこと)
パミール高原はタジク人からは、「世界の屋根」と呼ばれてきました。天児屋根命は「天の屋根」なのでパミール高原を現すようです。
パミールは別名が葱嶺(そうれい)で葱(ねぎ)の発祥地でしたが、天児屋根は神主で禰宜(ねぎ)だったことに関係してるような。
イスラエルのレビ族は司祭でしたが、レビがネギになっているかもしれないなと、妄想してたのですが。
そして榊を取った天の香具山とは、慕士塔格山の「格山=香久山」かと。
思兼神(おもいかねのかみ)
崑崙山の「崑」とは混ざり合うこと、「崙」とは順序立てる、思うことだとか。すると思兼の思とは、崑崙山を表しているようです。
また思兼が天の岩戸の一連の流れを、順序立てた存在であることも示しているかと。そして天の岩戸では様々な役割の神々(民族)が集まったので「崑」の字があてはまっている感じがしました。
天明玉(あめのあかるたま)
パミール高原の東のタリム盆地や崑崙山は、玉(翡翠)の産地でした。タシュクルガンも玉の産地で知られたので、やはりこのへんであるかと。
天日鷲(あめのひわし)
タシュクルガンのあたりのタジク人は、鷹を崇めシンボルとする人々でした。鷲と鷹は同じ猛禽類なのでそのあたりの関係なのかと。
太玉命(ふとだまのみこと)
玉はタリム盆地をあらわすなら、太はホータンかと。ホータン・タリムで太玉という命名方法。あの辺出身の神主なのかと。
天糠戸神(あめのぬかど)
米を精製するとでるのが糠(ぬか)ですね。糠漬けのぬか。パミールは紀元前からの漢字で書くと「帕米爾」で、白米みたいな名前なのです。お米の産地だったようで。
すると白米から出た糠とは、帕米爾から出た天糠戸・・・。パミール高原にいた鏡の職人でした。
石凝姥(いしこりどめ)
パミール高原の北にイシククル(イシク湖)がありました。イシコでイシクのようなので、烏孫人かと。慕士塔格山の鉄を使って矛を作った武器職人かと。
豊玉神(とよたまのかみ)
名前が龍宮城の豊玉姫(乙姫)と同じなので、同一の神とも言われています。系図をみると、神武天皇の祖母にあたります。
玉なので玉の産出地である崑崙やタリム盆地を現すのかと。豊玉を別の読みにすれば「ホータマ」なので、やはりタリム盆地のホータンを現している感じ。
山雷神(やまつち)
パミール高原には前漢時代に無雷国があったのです。無雷出身のかたであるかと。
野槌神(のづち):鹿屋野比売神
カヤはカラに転訛する言葉で、あのへんでカラと言えば崑崙から流れてタリム盆地にそそぐ、黒玉川(カラカシュ川)。そしてカラコルム山脈。ちょうどパミール高原の南東に接していました。
天岩戸の主人公である肝心の天照大神も、同じように考えてみます。するとパミール高原あたりで崇拝された神と関係するようです。
マイトレーヤ my- t- ra-ya
ミトラ mi- t - ra
ミトラス mi- t - ra-s
アマテラス a-ma-te- ra-su
ミトラスにアを付けたら天照。ユーラシアの太陽神は、みんな元は同じ神さまなのです。それが日本の古代に入ってきました。
マイトレーヤこと弥勒菩薩は、元々太陽神だったようです。まぁこうして並べてみると納得出来る感じがしますね。
岩戸神話が崑崙山に当てはまるとすると、天照大神もまたパミール高原や崑崙の付近で崇拝されていたんですかね。
新宿銀の蔵 天然石 勾玉 翡翠
西域の高天原
というわけで天岩戸神話の根源が、中央アジアと西域のパミール高原や崑崙山に関連付くことはわかってきました。
すなわち日本の天皇家や豪族は、かつてパミール高原や崑崙に拠点を持った時代があったんじゃないかと思うのですが。
日ユ同祖論などの大和民族の大陸起源説では、移動した経路が推定されますが、彼らが移動するときにパミール高原あたりを通ったというのは間違いない感じがします。その後に烏孫に入って、日本に向かっていると考えているわけです。
しかも天の岩戸神話に当てはまるということは、天皇とヤマトの民の拠点が置かれたことが推定できるし、ここが高天原として認識されていた証拠にもなるのではないかと。
西域にはヤマトの地名があることも、当ショボい研究室では以前に明らかにしていました。全ては偶然じゃなかったようで。
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