たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅お仕事中。

天比登都柱から見えてくる倭国の人柱文化

人生が崩壊している低学歴低収入の隠遁者です。

それにしても幸福だけど頭がアレな人々による、不幸のどん底に落とす呪術と策略が蔓延っている世界について考えてばかりいてもアレなので、明るい話題で書いてみようと以前から気になってた天比登都柱についてちょっと思いついたことをしたためていたのですが、いつもどおり暗い内容になってまいりました。どうぞ。

 

○いつも助かっております

 

 

 

人口と生口

 

人の口と並べて書けば、それは人間の数を表す「人口」になったりする。これは考えようによっては、なんか奇妙な表現に感じたりするところ。「人数」「頭数」といえばいいところを、ヒューマンのマウスで人口だなんて。

口は食べ物を取り込む口のことで、つまり人口というのは「食事する人の数」なんですね。これは昔の食いしん坊バンザイな中国人が言い出したことらしい。

 

それから「魏志倭人伝」を読んでると「生口(せいこう)」と呼ばれる人々のことが書いてありますね。倭国から魏の国に対して、貢物と一緒に送り届けられていたある種ワイルドな人々のこと。

ポジティブな書物の解釈によっては、生口は留学生だったとか、派遣労働の漁民だったとか言ってるようですが。

しかしこの生口の解釈としては、奴婢や捕虜といった解釈が一般的でした。逆に漢から入ってくる人を生口と呼んでませんからね。倭国は東アジアを制する超大国の漢に対して、生口と呼ばれる奴婢を定期的に収めていたんですね。それは三国時代の魏との関係でも同じだったとか。

 

この生口という人々は、実は倭人も人間扱いしないで用いていたのではないか、とわかる記述が「魏志倭人伝」にあるのですよ。

持衰(じさい)とかいう風習で、倭人は奴婢の生口に対してこんな扱いしてたとか。

持衰

「その行来・渡海、中国に詣るには、恒に一人をして頭を梳(くしけ)らず、(きしつ)を去らず、衣服垢汚、肉を食わず、婦人を近づけず、喪人の如くせしむ。これを名付けて持衰と為す。もし行く者吉善なれば、共にその生口・財物を顧し、もし疾病あり、暴害に遭えば、すなわちこれを殺さんと欲す。その持衰謹まずといえばなり。」

中国正史日本伝(1)石原道博編訳p46

つまり生口というのはゴミクズ扱いされて最後は殺されてポイ捨てされも構わなかった、そんな人々のことなんでした。

その生口が何度も魏に献上されていたきろくがあるというのは、弥生時代倭国が奴婢、奴隷階級制度の社会だったことの現れですね。

それが江戸時代の士農工商の下に位置づけられた穢多・非人の身分制度の最初の姿でせうね。

 

ということは生口とは要するに直訳すれば「生の食べ物」であり、言い換えれば「まっとうな身分の人が生きるための贄」であり、それは生贄と書いても違わぬものだったのでは。

 

 

人柱による防衛と壱岐島の関係

 

この持衰(じさい)とやらの役割はまるっきり人柱なのですが。人柱は簡単にいえば生贄を捧げて事業を成し遂げる生命保険みたいなものでした。

 

人柱

人身御供の伝説の一つ。架橋,築堤,築城などの水利,土木工事技術が未発達の時代,柱の強化の目的で,生きている人間を水底や土中に埋めたこと。神の心をやわらげ,人身のもつ霊質が柱に乗移るようにするためといわれる。日本には人柱の伝説が多いが,実際に行われたかどうかは定かではない。 (→人身供犠 )  

人柱(ひとばしら)とは - コトバンク

 

いまでも建築現場では神主の祈祷による地鎮祭がおこなわれて、土地の怪しい神さまに対しては清酒、お米、水、塩、海の幸山の幸が供物とされていますね。

昔はアブナイ土地の場合、これに加えて人間一人が埋められてたというのは、何ともコンクリ詰めみたいなヤクザ稼業を思い起こさせてくれます。

この生贄、人柱となる考え方というのは、昔から国家規模の道路工事や橋工事、お城の工事でも行われてたりしたようです。

 

そして人柱の発想というのは、「大八洲(おおやしま)と呼ばれて神が生んだ日本列島そのものにも適用されてた」んではないかと。

なぜならとある古代の要所的な海域に、人柱的な痕跡が見えてくる島があるからなのです。

 

 

・・・壱岐島

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壱岐島 - Wikipedia

 

壱岐島というのは福岡のほうに近いのに、長崎県に所属してる島です。ここは奈良時代から江戸時代にかけては、西海道壱岐国でした。

「隋書」では対馬國のあとに一支國とあり、「魏志」では対海國(対馬)のあとに一大國とあるのが壱岐国のことです。

手元の「日本書紀」のほうをチラリと読んでみれば、壱岐嶋として、神産みの大八洲のなかにも「一書によれば」として、散逸した別伝で一応含まれていたようでした。

 

 

 別名を天比登都柱という壱岐島

 

この壱岐には不思議な別名が「古事記」のなかに伝わっているのでした。

その名も天比登都柱(あめひとつばしら)といって、国生みの最初の方に登場して、それ意向はぱたりと出てこない名前でした。

比登都とは「ひとつ」のことなので、「天に向かうひとつの柱」といえば淤能碁呂島のでイザナギイザナミがぐるぐる回ってはイチャイチャしたという、天御柱と同じものではないかとする考え方も出てしまうところ。

しかし壱岐を見渡しても、天御柱らしき跡地も伝承もさっぱり出てこないです。

 

そしてこの不思議な名称はどうも、古代の段階で壱岐の名に合わせていたのではないかと、そんな発想も浮かぶのでした。

以下の表は壱岐の別名を比較してみたもの。

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というふうに、それぞれの別名は「ひとつ」に対しての並々ならぬコダワリを見せているようです。

さらに「支(ささ)」という言葉に対しても一致を見せていたり、4種の異名には「き」が含まれていたり、人に関係する漢字(支・大・主)が入ってるといった共通点もあったり。

ようするに壱岐、一支、一大という3つが「ひとつ・ささえる・き」という共通の発音や意味を見いだせるのは、天比登都柱に合わせているから、そう考えて差支えないかのようです。 

 

 

 

比登都柱と人柱

 

「日本の海」とか「飛騨の山」みたいに助詞で使う「の」は、古語では「つ」が用いられる場合がありました。

例えば「天つ神」「国つ神」「沖つ島」みたいな用法で。 

 

ならば天の比登都柱の「都」は助詞で「の」であるとすると、

「天の比登の柱」になって、言い換えれば

「天の人柱」

であるかもしれないなと。

 

その昔、壱岐は大陸との交易路の拠点で、「岐」や「支」に表される分岐であったのです。これは地理的、地政学的な分岐なだけでなく、「当時ここを取られたら生きるか死ぬか」と言うくらいの要所だったのは、間違いなかったです。

 

つまり壱岐は「 生き(いき)」なのであり、それは生け贄、人柱と関係するから、天の人柱、比登都柱だったのではないかと。

 

大陸との接点という倭国でも重要な防衛拠点に、呪術的な生け贄のごとき人柱効果を求めて「天の人つ柱」を設置しているのだとしたら。それは倭国にとっての防衛の要としては、なかなか納得出来る話になったりするのですが。

そして天比登都柱という島の別名は一大国であることを踏まえるとひとつ思い浮かびます。当時倭国を検閲し恐れられてたという一大率なる集団が、この島の管理を行っていたのではないか、という想像。

 

 

人柱 書道家が書く漢字Tシャツ

 

ということでまたなんか、掘り返しちゃいけない封印された話を掘り出したのかと・・・。

まぁ昔の倭というのは、いろんな呪いと怨念が渦巻く呪詛の国で、今もあんまり変わらないのでした。

おわり。

 

 

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