新居にきて1ヶ月を悠に経過した。のだけど、家には慣れたと言っても、なんだか精神的には落ち着かない。
べつに外界に用事が殆どないので、外出するということは滅多になくて、埼玉にいた時よりストレスは減ってるわけですけど。それでも人に過剰にストレスを与えたがる人はどこにでもいる。第2次大戦中の泣く子も黙る憲兵隊みたいな。
椅子に座ったり横になりつつ、毎日5,000~10,000字くらいのライターのお仕事、それに電子書籍やブログに手を付け、掃除をしたりして過ごす。買い物は全部通販。この繰り返し。
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徐福と天富命
気晴らしに徐福と天富命(あめのとみのみこと)について、俺が知ってることを語ろう。
始皇帝の元にいた徐福の話は、日本でもかなり知られてます。中国では徐福=シュフと呼ぶとか。
『史記』による記述
司馬遷の『史記』の巻百十八「淮南衡山列伝」によると、秦の始皇帝に、「東方の三神山に長生不老(不老不死)の霊薬がある」と具申し、始皇帝の命を受け、3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、五穀の種を持って、東方に船出し、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て、王となり戻らなかったとの記述がある。
徐福の伝説は手元の「後漢書倭伝」にも載っていました。
会稽の海外に東鯷人あり、分れて二十余国と為る。また、夷洲および澶洲あり。
伝え言う、「秦の始帝、方士徐福を遣わし、童男女数千人を将いて海に入り、蓬莱の神仙を求めしむれども得ず。徐福、謀を畏れ敢て還らず。遂にこの洲に止まる」と。
世世相承け、数万家あり。人民時に会稽に至りて市す。(以下略
「中国正史日本伝(1)」石原道博編訳 「後漢書」倭伝より
まとめると、方士だった徐福が、子どもと技術者あわせて数千人を率い、蓬莱山のある倭へ旅立ち、そのまま倭に留まったという話でした。
方士というのは、
方士
中国古代の方術を行なった人。方術とは,卜筮,医術,錬金術などをさす。『史記』の「封禅書」と「秦始皇紀」に初めてその名がみえる。戦国時代の後期から燕や斉の地方を中心に不老不死の仙薬について説いた人で,その説を秦の始皇帝や漢の武帝も信仰した。この呼称は三国時代まで使われ,晋代に入っておもに「道士」といわれるようになった。
集合知、物知り博士、生き字引、賢者みたいな存在が、まさに除福だったわけなんですよ。
こんな賢者が1人いたら、未開の土地の住人も文明化されてしまいます。
でも徐福のいた紀元前3世紀の日本列島からは、漢字の断片すら見つかってないようです。なぜなのだろう。
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ところで日本の古典三書の一つに数えられる「古語拾遺」を見ていると、なんだか除福の話によく似た話があるものだなと、気づいたわけなんですが。 それは10年くらい前だったろうか。
「日本書紀」や「古事記」に出てこないのですが、神武天皇のときに天富命(あめのとみのみこと)がいました。
天富命(あめのとみのみこと)は、太玉命の孫。神武東征において橿原宮を造営し、阿波国に続いて房総の開拓をした。
神武東征においては、手置帆負・彦佐知の二神の孫の讃岐忌部・紀伊忌部を率い、紀伊の国の材木を採取し、畝傍山の麓に橿原の御殿を作った。また斎部の諸氏を率いて種々の神宝・鏡・玉・矛・楯・木綿・麻等を作らせ、そのうち櫛明玉命の孫の出雲玉作氏は御祈玉を作った。
そして、天日鷲命の孫の阿波忌部を率いて肥沃な土地を求め、阿波国に遣わして穀・麻種を植え、その郡の名は麻殖となった。続いて更に肥沃な土地を求めて阿波忌部を分けて東国に率いて行き、麻・穀を播き殖え、良い麻が生育した国は総国と言われ、穀の木の生育したところをは結城郡と言われ、阿波忌部が住んだところは安房郡と言われた。やがてその地に祖父の太玉命を祀る社を建てた。現在の安房神社でありその神戸に斎部氏が在る。また、手置帆負命の孫は矛竿を造り、その末裔は今別れて讃岐の国に在り讃岐忌部氏として年毎に調庸の他に八百竿を奉るのは、その事のしるしである。
天の岩戸で活躍した神、天太玉の子である天富命は、巫覡・神主であり、建築家であり技術者であり職人であり、植物学者であった、まさに集合知を欲しいままにする賢者だったんですよ。そういう意味で、なんか徐福に似ていますね。
共通点
徐福と天富命が似ているのは、特殊な行動にも見て取れます。
徐福
始皇帝の下にいた徐福(賢者)、3,000人の童子と技術者を率い、五穀の種を持って東方の倭へ船出し王となった
神武天皇の下にいた天富命(賢者)、阿波忌部を率い、東の安房へ向かい麻・穀を殖え総国(千葉)の開拓者となった
どちらとも、賢者が大勢を率い種を持って、東の「わ(あわ)」へ向かっているところです。しかも、倭と安房は、かけ合わせてるでしょうね。
これはまさに、天富命が、除福の行動を踏襲したといえるのではないかと。すると除福を送り出した始皇帝が、天富命を送り出した神武天皇に対応しています。
あとはこれも関係しています。
両者とも、畐(お酒が入ったとっくり)で幸い(しあわせ)な文字が含まれているということは、やはりこの2人は関連付けていることになりますね。
漢字は徐福の時代には倭になかったので、天富命のほうが後の時代ということになりそうです。徐福も天富命も、お酒が好きだったんですかね。
同一人物かというと、そうでもないような気がします。
「歴史は繰り返す」とは言いますが、それは偶発的に起こる場合と、必然性をもった古くよりのシキタリとして先人の行動を繰り返す、ならぞえて動くみたいなことが関係することもあるんではないかと。
歌舞伎や浄瑠璃などの伝統芸能で昔の演目を繰り返すこと、天皇の即位の儀である大嘗祭では古代の儀式を再現すること、そうしたものに近いのではないかと。
もう一つ加えるなら、個人的には、ユーラシア大陸と日本列島の雛形論が、天富命の話にも入り込んでいるのではないかと考えてしまいます。
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