あ、明治維新の時ですが。まことしやかに囁かれてるのが、明治天皇のすり替え説です。
で、まぁ俺がなんでこんな陰謀説まで首を突っ込むかというと、いろいろ気になることがあるからなんです。まあひとりごとなので、気にせず・・・。
○いつも助かっております
明治天皇になったのは
イニシャルトークすると、山口県の長州のO室寅之祐さんだとか、まことしやかです。
本来の明治天皇は暗殺されて、O室寅之祐さんが明治天皇に担ぎあげられたとかいうのがすり替え説なんです。ま仮説なので。。。
このO室寅之祐さんの出自は、山口県の田布施という町だそうなのですが、調べたら、田布施の人々についての出自には、3つの仮説があるとわかりました。
どれかわかんないんですが、地元の有力者の証言などによると、2か3だというらしいです。
グーグルの検索結果これ。
いろんなブログに書いてある。南朝末裔説も根強いですし、明治天皇は孝明天皇の子息だという話が通説です。現段階でどれが合ってるか判断ができません。
で、田布施というのは、山口県の熊毛郡田布施町と、鹿児島県の南さつま市金峰山のあたり、2カ所にあったとか。ここらへんが朝鮮からの移民があった土地だったとかいう。そして著名な政治家を多数排出しているのが、長州薩摩であると。
ここで言いたいことは、
「なにか明治天皇は朝鮮系でO室寅之祐説」はおかしい
てことです。
其の理由は明白。
それは、明治維新の時に五箇条の御誓文という明治政府の基本方針が発表された時のこと。
参与で総裁局顧問の木戸孝允は、天皇が天神地祇(てんじんちぎ。簡単に言えば神)を祀り、神前で公卿・諸侯を率いて共に誓いの文言を述べ、かつ、その場に伺候する全員が署名するという形式を提案し、これが採用されることとなった。
日本の古式で行ったんすよ。みんな日本人ですね。
そして五箇条の御誓文の一つに、これがあるではないですか。
一 旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
と言ってるじゃないですか。これまでの間違ったやり方はやめて、日本古来の天地の公道に沿った日本国であるべきだって、言ってる。
ここまで古来の日本の神の道に従い、神式にて日本のための政治をやるんだぞ~と言っておいて、朝鮮人のO室寅之祐さんを担ぎあげるっていうのが、ありうるんですかね?
というのが疑問だったんす。
普通に考えれば、ないんですよね。すり替え説は嘘で、明治天皇はちゃんと孝明天皇の子息だったと。考えることが妥当だと、一般認識ではそう考えました。
でも、ところが、この考え方が実はそうじゃないかもしれないと思ったのは、寅之祐が若いころに「寅吉」だった頃のこと。
1865年1月寅吉かぞえ16歳の時、錦の旗と南朝の首飾りをつけマンジュウを作りに 行くと言って萩へ行き高杉晋作による功山寺挙兵に参戦。見事に勝利する。
ここに重大なヒントが・・・。
そしてもう一つ、O室寅之祐、田布施が、暗号として機能してるんじゃないかと思ったからなのです。
ここで一句。
・・・困ります 本気にされたら 困ります・・・
気になるこの続きは、明日も生きていれば、この下に書きます。
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続きを書く場所確保( ゚д゚ )
続き
10月2日深夜0時過ぎ執筆と画像の制作を始める。
昨日、こ記事を書いたあと、夕方に男子高校生か何かが、家の前で腕を振り回しながら大絶叫していった。いわゆる集ストのミッションだ。
どこからか嫌がらせ指示が飛んで、絶叫班が派遣されてきたらしい。
夜になったら低気圧が急に発達したそうで、外は大風。ということで、精神的な回復まで時間がかかった。寝てなんとか持ち直したので続きを執筆。
仮に、「田布施のO室寅之祐さんが明治天皇に即位した」と仮定した場合を考えてみます。
なぜO室寅之祐が選ばれたのか?誰でも良かったのか?南朝の天皇家、朝鮮人か、朝鮮族の王族の末裔かという3つの候補が出てくるのですが。はっきり言うと、
「朝鮮の地域からやってきた」、これは、ひょっとする合っているかもしれないと、思ったのでした。
そして彼がたとえ大陸からやってきているとしても、「日本の天皇の血統である」ことに違いないかもしれない、と。
どういうことか。
(1) まず田布施の土地を見てみる。山口県の南東と、鹿児島県の西部、2カ所。
(2) O室寅之祐というのは、寅である。「寅」の文字の源字は「矢を持ってまっすぐ伸ばす」(学研漢和大字典)という。
(3)ではどっちにまっすぐ伸ばせば良いのか。
山口の田布施から東に線を引くと和歌山県の牟婁郡だった。
鹿児島の田布施から東に線を引くと、諸県郡だった。
つまり近畿と九州のムロ、モロを指しており、これがO室のムロと関連付けてあるようだった。
(4)これだけではないはずだと思ったので、朝鮮に関係する方向にも線を引いた。
(5)「寅」の字が示すとおりに、真っ直ぐ北に伸ばすと、そこは満州だった。O室寅之祐は言ったではないですか。「マンジュウを作りに 行く」と。
田布施の真北は、マンジュウ=満州だった。
(6)満州といえば虎がいる。寅之祐とはよく言ったものだと思ったら、すぐに解った。
(7)満州にいる虎は、「アムールトラ」というのですね。O室寅之祐は「オームロトラノスケ」なんじゃないかと。「アムール虎の助っ人」である。つまりオームロとはアムールの隠語だったんではと。
(8)そういえば、古代に扶余の関係で豆莫婁なんていう土地もありますけど、TomoluなのでOmuroに似てるではないですか。このへんも考えると、ははあなるほどね、って感じですが。
(9)田布施から伸ばした線の先になにがあるか?
満州国建国時には「延吉道」という地域があって、いまの延吉の近隣が、延吉道でした。図上でオレンジのとこ。
「延吉」というのは現地音で「イェンチー」というのですよね。
ところでO室寅之祐は若いころ「寅吉」だったじゃないですか。これ、中国読みだと、「インチー」なんですよね・・・。そして延吉がある場所は、吉林省。
田布施の町の真北に吉林省と延吉があって、しかも、延吉=寅吉は発音が似てるのは、偶然なのかな?と。
(10)さらに田布施から導かれた線を北に伸ばそう。すると何があるのか。アムール川。これはやっぱり大室川、アムール川、なのではないかと思う。
自分たちがアムール川のアムールトラの土地から来ていることを表してるんでは。
(11)これだけには留まるまいと、手がかりを探しました。探しているのは「田布施」。
そして気づいたのですが、田布施からの線上にある「桂木斯」は現地音でチャムスと言うんですが。
Tia-mu-suとするなら、
Ta -bu-seと似ているなあと。muはbuの音に入れ替わることがある、というのは「無」をmu、buと発音することでも分かりますけど。
つまり、田布施の人々の元々の出身地は、桂木斯に関係があるかもしれないと。
さて、ここまで書いたのは個人的な想像力の賜物でしかないのですが、どのくらい合ってるんですかね。
もう少し突っ込んで考えてみませう。
朝鮮王族ではなくて扶余王族なのではないか
「O室寅之祐は朝鮮王族」という説が気になっていました。
ここまで調べた限りでは、「O室寅之祐は朝鮮王族」は違うんではないかと。
じつは桂木斯のあるあたり、このあたりは古代に「扶余」があった土地なんですよね。
つまりどういうことかというと、O室寅之祐というのは朝鮮人(朝鮮族)ではなくて、厳密に言えば「扶余王族の末裔」であり、桂木斯のあたりにO室家の先祖はいたのではないかと。
それでいつしか「朝鮮半島を経由して」日本に渡ってきた扶余人の末裔である田布施とO室家らは、桂木斯の真南の日本へ渡ってくると、田布施(チャムス)という名の町をつくった。
それで寸分の狂いもなく線の上に2つの土地が一致し、名前が似てるんではないかと。
自分たちの故地を忘れないために、扶余の桂木斯(チャムス)の真南に田布施(チャムス)を作ったと。
そして時は幕末に移り、O室寅吉が誕生する。この子は満州の扶余王族の末裔であるとの認識だったんだろう。
名前を寅吉としたのは、田布施からまっすぐ線を伸ばすとアムールトラのいる満州の桂木斯と延吉に到達することを示唆するため。満州の延吉(イェンチー)から名を取って寅吉(インチー)としている。
O室寅之祐が「マンジュウを作りにいく」と言ったのは、日本を満州の代替として、自分が日本=満州を統治するという意味だったんだとすると。
寅吉時代には、自分が天皇に即位することが決定していたことになる(O室寅之祐明治天皇説が事実とすれば)。
(追記、10月2日23:54)
「扶余」っていうのは「扶(たすける)+(余(あまる)」
日本人なら「余」は「あまる」とわかる。これは扶余の地域に流れる「アムール川」のことを示唆すると理解できますね。そして「あま」とは「阿毎=天つ日嗣」に通じる。
扶余とは「天を助ける」という本来の意味がありそうなことは、日本語だとわかる。
つまりやっぱり扶余の言語というのは日本語に近いことに。
それでO室寅之祐の「祐」は「たすける」ことだから、まとめるとこうなります。
O室 寅 之 祐(助)
アムール 虎
余(アマル) 扶(助)
天(天つ日嗣)
こうなると、O室寅之祐さんは扶余の王家の末裔である可能性は否定できないといった感想が根強くのこります。
(さらに追記10月8日)
明治天皇の称号は「祐宮(さちのみや)」なのですが、なぜO室寅之祐の「祐」を使用しているのか?という疑問があります。この部分も、明治天皇のすり替えが事実であることの信憑性が増してくるところ。膨大な数の漢字の中で、1字がたまたま一致したのだろか。
なぜ木戸孝允らは「扶余王族を選ばなければいけなかった」のか?
しかしまだ分からないことが。
なんで明治維新の時、木戸孝允らは「O室寅之祐を選ばなければいけなかった」のか?
O室寅之祐が扶余王族の末裔だとして、なぜ木戸孝允らは「扶余王族を選ばなければいけなかった」のか?
江戸時代までの天皇だった孝明天皇の血筋では、だめだったということではないか。
つまり、なんで扶余王族のO室寅之祐じゃないとだめだったかといえば、
「古代の天皇の血統が扶余王族」であると、明治維新派の間では知られていたからではないかと。思うんですが。
「そんなバカな?」
拙著でも書いてますが、古代の日本の天皇というのは、扶余から来てるのは間違いないことなんすよね。
(まあもっと遡ると烏孫なのですが。)
木戸孝允ら維新を成し遂げた維新志士らは、古代の日本の天皇は扶余からきてるのだから、本来の扶余に戻さなければ本来の日本ではないのだと、そういう結論だったんではないかと。
それで維新志士らは、O室寅之祐が満州からきてる扶余王族の末裔であるということを知っていたので、彼を担ぎあげたのであると。
ということはつまり、
一 旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
天地ノ公道とは「古代の扶余の末裔としての天皇家」
の復活であったとゆうこと。
じつは今の日本国は、大陸の扶余の分身の天皇陛下と政治組織の治める国なのであり、従って大陸系は左翼とか日本系は右翼とか、別れて言ってても仕方がないことになるのだが・・・。
国の政治の中心が、右翼と左翼の両方を合わせたごった煮なのだから。
そういえば木戸孝允の別名は「桂小五郎」で、出身地の山口で、桂木斯と同じ「桂」を名乗ったのも偶然ではないのかも?
桂 小五郎
木 戸孝允
縦読みすると桂木斯が発生する。どうだろう?木戸孝允自身も、先祖はアチラなのかもしれない。
にしても日本の文化伝統を優先させているのは、日本人だからとしか言いようが無い。つまり彼らにとっては「扶余=日本」なのだから、彼らにとっては辻褄が合うし矛盾しないのだ。
木戸孝允の名前が、この「明治天皇すり替え説」を補強していないだろうか?
ここで問題なのは、古代の天皇が本当に扶余王族と同一なのか?ということですが。
ある程度調べてみると分かってくることはあります。
15世紀の朝鮮の「海東諸国紀」の一文
日本は黒竜江(アムール川)の土地から始まり、南下しているというのは、古代の天皇家の移動を表してるぽい。
ほか、渤海国の国書だとか、
「晋書」で「卑弥呼宣帝之平公孫氏也」と卑弥呼が満州の公孫氏から来てると受け取れる文書もあり。私設によれば卑弥呼の正体は崇神天皇
長くなるので、続きは既出の以下の記事。
このへんが扶余関係。
ほんとのところはどうなのか、ご存知のかたに聞いてみたいですね。
単なる妄想なのか、それとも明治天皇の本来を取り戻せたのか。
では。
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