これまでの人生で「散々」な目に遭ってきたので、日本各地の「三山」を調べてみようと思いたちました。
○いつも助かっております
大和三山の調査
日本には「熊野三山」「出羽三山」など幾つかの三山を確認できます。
しかし日本の歴史上で、最も古くからその存在が確認でき、常に日本史の中で大きな役割を果たしてきた三山といえば?
「大和三山」を挙げることができます。
大和三山は「畝傍(うねび)山」「耳成(みみなし)山」「天香具(あめのかぐ)山」の3つの山で構成されています。
各山のデータを簡単に抽出しますと次の通りです。
大和三山 標高m 所在地
いまだ天皇陵の調査は認められておらず、実際にその名が示す通りに埋葬がされているかの確認がされてません。
昔から「多分ここが天皇陵だよ~」と伝えられてきた伝承地という側面もあります。
歴代天皇 御陵の名
第二代綏靖天皇 桃花鳥田丘上陵
天香具山
日本書紀内における、香具山の初見は神代でした。
年の割にはやんちゃな素盞鳴尊が天照大神に対し、やりたい放題ブチかましてしまいました所、天照大神が天の岩屋へ引き篭ってしまった時でした。
八十万神(やそよろずのかみ、別の場面では八百万ともいう)が天安河のほとりに集まり、どうやって天照大神を岩屋から引っ張りだすかを相談し始めました。
そんな中で集まった神々が祈祷を始めるにあたり、天児屋命と太玉命が、八尺瓊の五百箇の御統や八咫鏡と共に、天香山の榊を掘って揃えてきたのでした。
これが日本書紀での天香具山が最初に登場する場面でした。
次に畝傍山。こちらは神代より時代が下り、神武天皇の時代に遷り変わってから初めてその名が見られました。
神武東征のゴール地点である橿原の畝傍山の東南が、宮殿を建てるのに良い土地だとする記述が出てきます。
最後に耳成山ですが、日本書紀と古事記の神代、神武天皇と欠史八代、崇神天皇、応神天皇以降の時代に至るまで、耳成山は全く登場してきません。
その名が日本書紀に最初に見えるのは、おそらく允恭天皇の時代です。
なぜそれ以前の時代に耳成山が登場しないのかは不明で、この山の形状が東西南北に対照的であることも吟味すれば、人工的な山ではないかという説まであります。
そのへんはこちらで確認できます。それから読み方は「みみなしやま」です。
ところで上にある図を見て理解できると思いますが、大和三山は二等辺三角形を構成しています。
それぞれの山の頂点を結びつけると、ほぼ完璧に二等辺三角形が出来上がるということになります。
畝傍山を起点として耳成山までの距離と、天香具山までの距離はほぼ同じになっています。
・畝傍山の山頂~天香具山の山頂までの距離 凡そ3.09km
3つの山の配置は完全に自然の賜物であるとすれば、二等辺三角形が形作られたことは自然の奇跡と言えそうです。
しかし二等辺三角形の2地点間の距離を考慮したとき、やはり「古代にほぼ正確な測量技術が存在し」その上で「耳成山は人工的に造成された」という可能性は捨て切れませんですね。
690年に着工した藤原宮というのは大和三山の配置を意識して、この場所に宮殿を造営されてます。
が、これより以前の時代の記紀といった記録の中に、耳成山が登場しない事実からは、「耳成山の完成」がおそらく允恭天皇以前の古墳時代、4世紀以降~6世紀以前の時代であることを伺わせますですね・・・。
──以降は追記(2013年3月6日)──
気づいたことがあったので追記。耳成山を構成する土壌成分は火山岩だということです。
耳成山は活動を停止した死火山ということになるのですが、では「耳成山には火山特有の噴火口があるはず」だと調べてみたんですが、それらしきものがまるで見当たらないのですね。
国土地理院国土ポータルの等高線
のっぺりした形なんですね。噴火口らしき窪みは確認できません。
ほぼ左右対称の形をしてるのも特徴です。
グーグルアースを用いて立体画像を抽出したのが以下の画像。
というふうに、おわんをひっくり返した半球面か、円錐台かといった形状をしているのです。
一見して噴火口が確認出来ないということは、自然地形を整形し、噴火口を埋め、山の頂点を二等辺三角形に合致する位置に持ってきた可能性があると思います。
さらに言うと、以上の経過を経ているとするなら、これが古代(古墳時代)の大王(天皇)の陵墓であるとの一説には、信ぴょう性が出てくるということになりますけども。
真相は如何に。
2013年5月26日追記
ところで、この大和三山の二等辺三角形は、かなり昔から知られてたとか。
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