たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅お仕事中。

遣魏使は日本書紀に記録されたかどうか。3

五十猛神(いたけるのかみ)の別名が、有功の神(いさおしのかみ)である所で、ひとつの仮説が浮かびました。

魏志のなかで、正始四年(243年)に魏へ向かった伊声耆(いせき)は、日本書紀五十猛神のと同一人物なのではないかとの仮説です。少し伊声耆と五十猛神の名を分析して見ました。

五十猛(いたける)は五十と猛に分けて考えます。五十と漢字2文字で書いて「イ」と読むのは不思議な感じがします。五十は「いつとう」や「いと」、または「いそ」「いか」とも読める筈です。もしかすると五十は、伊都国の伊都かと考えます。

五十を「イ」と読むのは、古代の日本には委の字が当てられたことと関係するかもしれないです。つまり、五十は「倭・委」を指すのではないかということです。

後漢書には、後漢建武中元二年(西暦57年)に倭奴国王に贈られた蛇の金印のことが書かれています。福岡県の志賀島から江戸時代に見つかった「漢委奴國王印」のことで、通常は「漢の委(わ)の奴(な)の国王」と読まれ、委奴国は倭の奴国と解釈される傾向にあります。

一方で一説には委奴は伊都国のこととする説もあります。3世紀当時、倭人が大陸と交易を行う際には、全て伊都国を通して行われたことが魏志倭人伝に書かれています。それ以前の時代にも伊都国が本拠地だったことは充分に考えられることです。

五十猛の五十が伊都のことであるとするには、まだ根拠があります。

日本書紀の仲哀紀に述べられていることですが、伊都の別名を「伊蘇」ということです。日本書紀では、伊都県主の先祖の名が、五十迩手(いとて)とされており、五十迩手は、仲哀天皇によって、伊蘇志と呼ばれたことが書かれています。元々は伊都のことを伊蘇と言い、伊都というのは後に訛ったものというふうに書いてありますが、魏志倭人伝で、伊都国の名はあれども、伊蘇国とはどこにも書かれてません。金印の委奴国がイド国と読むとするとしたら、伊蘇より伊都の音のほうが先であることがはっきりしますが。

委奴は「わのな」なのか、「いど」なのかの論議はありますが、私的には倭・委は、ワともイとも言ってたと思うので、どちらも使ってたのではと考えています。
ともかく伊都は伊蘇でもあるようです。それぞれの固有名を比較してみます。

五十猛神(いたける) 五十(い)i=いとito=伊都ito=伊蘇iso
別名有功神(いさおし) 有isa=伊蘇iso=伊都ito
五十迩手(いとて) 五十i=伊蘇志isosi=伊都ito
伊声耆(いせき) 伊声ise→伊蘇iso=伊都ito

五十迩手が仲哀天皇の時代(おそらく4世紀)の人物なので、直接的には関係無いかもしれませんが、伊都と伊蘇が同じであることの補足にはなっているかと思います。
伊声耆の伊声は、伊蘇に似ていますし、伊都が伊蘇の転訛または別名と考えると、五十と伊声は同じく転訛または別名と考えられるんじゃないでしょうか。

他に気づいたことを述べますが、もしかすると伊都国のことを、伊蘇城と呼んだのかもしれないです。伊声耆の名は、伊蘇城という出身地名だとも考えられます。城には国という意味合いもあります。新羅は新羅城であり、任那は御真城でもあるので、可能性はあるかと思われます。諱(本名)や和風諡号に出身地名が含まれるのは、倭人の時代にあっては普通のことだったようです。他にも五十の名を持つ人物が何人かいますが・・・。このことについては別の機会に述べます。

猛(たける)のほうは、埼玉県の稲荷山金錯銘鉄剣に刻まれた金象嵌、「獲加多支鹵大王(わかたけるおほきみ・21代雄略天皇)」から見い出せます。多支鹵(たける)と同じ名で、12代景行天皇の子の日本武尊(やまとたけるのみこと)の武(たける)にも見られます。


載斯烏越は素戔嗚尊とする説も紹介しました。内藤虎次郎氏の著書が手元に無いので、本の内容の断定はできませんが、載斯烏越の載斯と素戔嗚尊のスサの音が似ていることが根拠の1つとなっているかと思います。そういえば載斯烏越に連体格「の」を含めて、「載斯の烏越」とするなら、サイシノウ→サシノウ→スサノオと連想できなくもない気がします。

自分としては、素戔嗚尊倭人の先祖が長い年月を経る間に、多くの民俗・部族の英雄や神が習合された象徴的な存在であると考えているので、載斯烏越もスサノオのイメージに取り込まれた可能性はあると思ってます。3世紀、日本列島と魏を行き来した倭人・遣魏使の中で特にリーダー格の人物は、強靭な肉体と精神力を併せ持っていた魅力的な人物だったはずで、倭人の中では特に英雄視されたことは想像できます。その中でも伊声耆と載斯烏越は神格化されるほどのの人物で、日本書紀の中に神として断片的な記録が残ったのかもしれません。残念ながら、詳しい検証ができるのは伊声耆だけでした。

最後に、「五十猛神が持ち帰って、韓地には植えず、筑紫国から撒き始めた木の種」とは一体なんなのかを考えてみます。

五十猛神が種を蒔くと、日本列島は青山に変わったとあります。土地が豊かになった表現のようです。五十猛神が伊声耆と同一として考えてみました。魏へ向かった伊声耆は、魏の先進技術や、倭には無い珍しい、便利なものを持ち帰った筈です。彼が魏から授かったのは、記録上では率善中郎将の印綬だけでしたが、やはり技術や、大陸の植物の種や苗木などを持ち帰って、それが日本書紀では種に例えられ、豊かになった例えが、青山に変わったという表現なのではないでしょうか。

日本書紀には「韓地には植えず」と書いてあります。韓地、これは三韓(馬韓弁韓辰韓)のことです。つまり三韓をスルーしているということは、五十猛神が向かった場所は三韓以外の場所、そこは魏だったかと考えられなくもないです。

素戔嗚尊が斬った八岐大蛇についてはまた別の機会に書きたいと思います。