たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅お仕事中。

古墳

電子書籍化する予定の「前方後円墳矢印説」の冒頭部分 part2

ということで前回の続き。 前回 電子書籍化する予定の「前方後円墳矢印説」の冒頭部分 part1 ○いつも助かっております 2・井上氏による「前方向法則」の把握 前方後円墳が、被葬者を特定する矢印の意味を持っている真相を解き明かしたのが、井上赳夫(たけ…

電子書籍化する予定の「前方後円墳矢印説」の冒頭部分 part1

状況が二転三転したせいで、電子書籍を発表できてないのですが、気まぐれで冒頭部分だけアップしたいと思います。 実はこれ、2015年12月の時点で発表予定だったのです・・・。 冒頭以降の内容も、少しづつ公開しますし、膨大な内容となった全体としては、電…

しゃもじの女王卑弥呼

しゃもじ しゃもじ - Wikipedia しゃもじとは「杓子」のことで、後にしゃもじと呼ばれるようになったとか。 杓子自体は弥生時代の卑弥呼の頃の遺跡からも、出土してるらしいです。 このしゃもじについては、知られてない事実があり。 ○いつも助かっておりま…

茨城県那珂市で知られる水鳥の線刻壁画、もしかすると地図だった

表面的な印象と、実際の真相は違ってることがあり。 ○いつも助かっております てことで 茨城県那珂市。ここに白河内古墳群2号墳という、ひとつの古墳があり。 7世紀初頭の古墳で、ちょうど推古天皇の時代で、聖徳太子(実在すれば)や小野妹子の時代・・・。…

垂仁天皇の時代が3世紀末~4世紀前半だったことを証明する方法

「偶然が重なると必然だ」とは、色んな人が口にしてますけど。俺にまつわる偶然の一致についても、はやく意味を解明してほしいっす。 ○いつも助かっております 年代特定 日本書紀の神功皇后紀に、実在した百済王と新羅王が登場しているのでsu。この百済王と…

京都の向日市の五塚原古墳は真の垂仁天皇陵で、垂仁天皇は倭の女王「壹與」の子な理由

『封印された叡智の回復(仮)』の原稿がなかなかまとまらない。というわけで、ブログでちょっとづつ内容を発表しつつ、まとめていくことに。 ○いつも助かっております 崇神天皇=卑弥呼+壱与説を証明する古墳 これは、拙著『崇神天皇に封印された卑弥呼と…

前方後円墳矢印説は完成している・第2回「仲姫命陵」

第1回 まえがき 第2回 仲姫命陵 第2回目ですけど ところで俺って普通なことが何にもできない。迷惑ばかりかけてる。やたら馬鹿にされてますけど。 それでいて、なんか訳の分からない物事には、集中力やら読解力があるような気がしたりして。なんなんです…

前方後円墳矢印説は完成している・第1回 まえがき

第1回 まえがき 第2回 仲姫命陵 第3回 仁賢天皇陵 ○いつも助かっております 前方後円墳の叡智について、数回に分けてお送りします 前方後円墳矢印説については、以前からチラリと書いてきました。 前方後円墳の中心軸を測り、その延長線上に、被葬者に関…

武家の春日部氏と古墳の謎あれこれ

春日部は謎に満ちている・・・いい加減にして欲しい謎まであるのですけど。 あ、お前が言うな、という嘲りの声が・・・。では、春日部の秘密をほんの少し。 ○いつも助かっております 春日部の由来とは 埼玉県の春日部という地名、実は、近畿地方にもあるので…

ミミシシッピ文化と倭人の間にあった退っ引きならない関係に迫る

アメリカにあった、ミシシッピ文化と日本人の知られざる関係についてまとめた記事です。 ○いつも助かっております ミシシッピ文化とはなんぞや ミシシッピ文化 (ミシシッピぶんか、英:Mississippian culture)は、マウンド(塚、上に住居や墳墓などを建設す…

日本武尊の時代の東日本の蝦夷は匈奴だった 2022年改訂版

最近は2つの意味で、星新一の短編小説に、はまってますけど。 今年の予定は、1・出版社から出版できるかどうか。果報は寝て待て。お願いします。2・電子書籍の下巻をばっちり完成(7月頃)3・100円電子書籍をひっそり完成(下旬)4・烏孫起源論の第…

出現期の前方後円墳の建造計画の一端が明らカニ?

なんか輪番制でデカい声出す子供が、またまた連日近所に登場しているし、テレビは「見ると鬱になる道具」になったので見たくない聞きたくないと感じるこの頃。 つきまといの方々に馬鹿にされ続けましても、まだ希望は残っています。 ○いつも助かっております…

紀元前2000年に描かれた機械的な壁画

これは1937年、ウズベキスタンのフェルガナの洞窟で見つかった、紀元前2000年に描かれたらしい壁画。 一説に12000年前の遺跡だとか・・・紀元前2000年といえば日本は縄文時代のこと。 ○いつも助かっております では壁画をちょっと見てみよう 以下のサイトよ…

【前方後円墳矢印説】大仙古墳は仁徳天皇陵だった・・・大仙古墳編(2022年改訂版)

原稿が8割方まとまって来た所ですが、いろいろ考えていたら何か鬱になって来ました。今回は前方後円墳矢印説で解明する大仙古墳の被葬者について、かいつまんで取り上げます。 ○いつも助かっております 大仙古墳のデータ 大阪府堺市堺区大仙町 全長486m…

【前方後円墳矢印説】磐余若櫻宮を示す神功皇后陵・五社神古墳編

『日本書紀』にある、神功皇后が葬られた狭城盾列陵は、奈良市山陵町の五社神古墳(ごさし)に治定されます。全長273m。4世紀末の築造。 ・・・・・・・・・・・・・・・○いつも助かっております 京北班田図 西大寺に伝わっていた奈良時代の地図『京北…

美豆良(みずら)の謎から解く日本人のルーツ

美豆良(角髪)と書いてみずらと読む。これは古代の倭人の髪型でした。今回はみずらについて。 ○いつも助かっております みずらは色んな種類があった 埴輪でよく見られる髪型です。倭人の髪型は色んな種類があってバラエティ豊かな中でも、美頭良は倭人の一…

前方後円墳は矢印だった

前方後円墳矢印説の概要公開 全国の津々浦々にまで巨大な威容を誇らしめ、またはひっそりと佇んでいる、数多くの前方後円墳。 前方後円墳の正体とは、従来より弥生時代末期以降の権力者の埋葬施設、権力誇示のためのモニュメント、地域の目印、そういった目…

卑弥呼と蛇神大物主神との繋がりは「魏志倭人伝」に暗号で書かれてた? 2022年改訂版

今回は卑弥呼と大物主の関係が、「魏志倭人伝」に書いてあったのでは?という話。 ○いつも助かっております 卑弥呼の特徴 魏志倭人伝は卑弥呼を中心として倭国情勢が淡々と伝えられますが、とくに卑弥呼を表す一文として次の部分が注目されます。 其國本亦以…

大和三山と三輪山を繋ぐ、2つの二等辺三角形

この前は大和三山の二等辺三角形と耳成山人工山説をお伝えしましたが、実はやはり中途半端でした。どこまで発表して良いのかという逡巡を経まして、今回はもう少し踏み込んで続きを書きたいと思います。 ○いつも助かっております 大和三山と三輪山の図 この…

邪馬台国の彌馬と御間城 2022年改訂版

この記事は崇神天皇の瑞籬宮は、名前を元にしているとの内容です。 ○いつも助かっております 名前は地名 崇神天皇 - Wikipedia 遅ればせながら、安本さんの「天照大神は卑弥呼である」を読み始めました。 冒頭に魏志倭人伝の卑弥呼の居城には矛を持つ兵隊が…

田道間守の行った常世と非時香果の正体1

非時香果(ときじくのかくのこのみ)についてのお話です。 ○いつも助かっております 非時香果とは これは垂仁紀に登場する謎の木の実。 垂仁天皇90年、天皇は田道間守(たじまもり)に、「常世の国へ行き、非時香果を手に入れてきてほしい」と命じました。…

炭素14測定法による箸墓の年代がよくわからない件

炭素14年代測定法というのがありまして、これが厄介なのです。今回はその話。 ○いつも助かっております 炭素14 自分のような勉強の足りない脳みそだと、どうしても次のような解釈になりました。 「炭素14年代測定法の測定結果は、年代のある一点を示すの…

古墳は失われたり、復元されたり、保存されたりする

古墳の栄枯盛衰や保存についてのおはなしです。 ○いつも助かっております 関東最古級の古墳 神門古墳群 - Wikipedia 千葉県市原市に神門古墳群という、3つの出現期古墳がありました。いずれも3世紀前半から中頃にかけての、日本最古級の前方後円墳でした。…

稲荷山のヲワケさん。2

前回の続き。▽これ押していただくと助かります。 意富比からの8世代の名 稲荷山古墳 (行田市) - Wikipedia稲荷山金錯銘鉄剣に書かれている意富比垝からの8世代を抜き出します。 1意富比垝 おほひこ 2多加利足尼 たかりのすくね 3弖已加利獲居 てよかりわ…

稲荷山のヲワケさん。1

今回はさきたま古墳群の稲荷山について。○いつも助かっております 稲荷山 稲荷山古墳 (行田市) - Wikipedia関東平野のほぼ真ん中。埼玉県北東部に、さきたま古墳群があります。 関東有数の大型古墳集積地で、最大の前方後円墳は墳丘長120メートル、後円部の…

古代皇族の殉死と埴輪のこと。2

「騎馬民族国家」から引用しますと、スキタイについての記録はヘロドトスによるものがあり、王の埋葬の1年後、侍臣50人と良馬50頭を絞殺して遺体の内臓を摘出、掃除し、もみがらを詰めて縫い合わせ、それらを円形に王陵の周囲に立て──とあります。全国…

古代皇族の殉死と埴輪のこと。1

11代垂仁天皇の時代(西暦300年前後か)に、長く続いたのであろう一つの風習に終止符が打たれ、また新たな文化の始まりがありました。それは殉死(殉葬)の終わりと、土物(埴輪)の始まりです。 古代の倭人の皇族の埋葬の際に、殉死、つまり生前に親しかった…