一見して無関係なようで、実はがっちり繋がってるみたいな話です。
最近は世の中かの仕組みと流れが、すこし見えるようになって参りました。
出雲に伝わる「八雲の図」も、そんなワケアリ物件名物件だったようなのですが。出雲すまぬ。
今回は出雲から、思いもよらぬ異国の影が見えました。
○いつも助かっております
八雲の図
まず八雲って、意味不明な言葉ですね。八雲って何なのかと調べると。
八雲
八雲(やくも)は、八重に(幾重にも)重なり合った雲である。
日本神話においてスサノオが詠んだ「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を」が日本初の和歌とされることから、和歌の別名ともされる。
また、上記の歌に因んで「八雲立つ」・「八雲さす」は出雲にかかる枕詞となっており、八雲は出雲国を象徴する言葉となっている。
八雲は出雲の象徴・・・。
八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を。
出雲大社の八雲の図とは、言い換えれば「出雲の図」、出雲の仕組み、出雲の設計図みたいなものかもしれないなと。
出雲の漢字を見れば、誰しも空に雲が出たことを思い浮かべますね。
昔から八は末広がりと言う風に、一点から無限の広がりを見せる意味が付いたんすよ。
だから八雲も、雲が無数に涌き出る、そんな意味合いもありそうですけど。
グルジアの飾り文字、八雲図に通ずるところある。八雲図も実は文字なのかな。
右側が八雲之図。この絵柄が重要な意味を持っていたようです。
八雲と魂
出雲の八雲ってなんか、第一印象で、キモい、グロい、ヤバい。形と言い、色使いと言い。
空に漂う雲は、人の霊魂の漂う姿であると、むかしの人は考えてたとか。じゃあ空はいつも、魂うようよ状態。大霊界か。
漢字の雨が天を現し、云が人の言葉、転じて魂のことであったわけなのです。
八雲をじっくり見つめると、なんか幾つもの違った魂が絡み合って、1つになったような。
まじまじ見ると、内臓的な不気味さを放ってるような禍々しさも併せ持ってるような。
この発想「幾つもの魂の絡み合い」
が、じつは正解かもしれないな。というのは、出雲の複数の神話からもわかるのですが。
八雲の図の特徴
それで、八雲の図の特徴を調査したら、以下のような様子が見えてきたんですね。
・出雲大社本殿の板張りの天井にある
・絵図は東西南北が明確
・八雲はふわふわした雲や魂の姿
・雲は長い尾を引いている、尾流雲
・ひとつの八雲は色違いの雲が幾つも絡まってる(彩雲)
・雲は虹色(赤、青、黄、緑、橙、紫、黒、、に白を入れたら8色)
・八雲といいながら雲は7つ(未完成、崩壊を避ける意味)
・6つの雲は西、北西から東へ流れる
・1つの雲は巨大(心の雲)
・1つの雲は西向き、(お辞儀してる、他の雲をお出迎え?)
・雲は出雲大社の天井に集まった
・八雲の図とは人々の流れをあらわす
・出雲大社の八雲の図は1744年の竹内随流斉甫記の作
・神魂神社には9つの八雲の図がある
・つまり八雲は雲の数ではない
・古代から伝えられた絵柄
八雲の図とは人々の流れをあらわす
こうしてまとめると、なんかだんだん見えてくるものがありました。
国引き神話との関係
で、出雲の仕組み、出雲の設計図といえば、「出雲国風土記」の国引き神話ですよ。手元にもあります、この風土記何度もよみました。
それで結論としては、国引き神話とは最初期の出雲建国に、どこの国や地方豪族が関わったか、示しているのは明らかです。国を引けば国民も一緒に付いてくるので。
引き神話で知られるのが、八束臣津怒命(やつかおみつぬのみこと)でした。
日本書紀や古事記で、出雲に最初に登場した人物は、出雲国の鳥髪にいた大山津見神の子、足名椎命、手名椎命、その娘の櫛名田比売(くしなだひめ)でした。彼らをヤマタノオロチから救った英雄がスサノオで、櫛名田比売との間に生まれた子がいて、その6代先に、八束臣津怒がいたとか。
国引き神話の骨子は、「八束臣津怒が、出雲から離れた各地の陸地を引っ張ってきて、小さな出雲を大きくした」という謎の神話。
これ、八雲が出雲大社に集まったみたいな、八雲の図みたいな話ではないですか。
つまり「八雲が流れてきて、出雲国に集まった」という八雲の図と、「国を引いて出雲を作った」という国引き神話は、発想が似かよってる感じ。
・八雲の図 八雲が出雲に集まった
・国引き神話 陸を引いて出雲に集まった
もしかして根本は同じだから、この2つの絵図と神話が、出雲という狭い場所に揃えられてるのかと。
多民族集合体を現す八雲
八雲の図を見れば、八雲はほとんど西方や北方から来て大社の空に集まってる感じでございますね。ということは、雲の出所は、大陸にあるということ。
これに、国引き神話を対応させてみたら、どうなるか?
国引き神話では、四つの国を出雲に引いて、くっつけてました。
1・志羅紀(しらき)の三埼
2・北門(きたど)の佐伎(さき)の国
3・北門(きたど)の農波(ぬなみ)の国
4・高志(こし)の都都(つつ)の三埼
ここに、方位がちゃんと含まれるのは、ヒントでした。
従来は西の新羅、東の越国(能登)は確定で、その他は「出雲の近所の陸地」を引いた、みたいな仮説がありました。
しかし国引き神話では、新羅、越国という遠国2つに対して、北門の2地域が出雲国内ではあまりに近すぎ、大して引いてすらいないじゃないか、との解釈の批判があるのです。
そこで北門佐伎と北門農波についても、新羅同様に海の彼方であろうと、想像をするわけです。
以前に有名な歴史家の古田武彦さんが語ってましたが。この方は日本海の北のウラジオストクから、出雲の隠岐産の黒曜石が大量に出るという事実を導きだしたらしいんです。
島根の古代文化センターに、これについての展示があったとか。
古田さんは出雲の北門は、粛慎(みしはせ)だとか、挹婁(ゆうろう)あたりだといってました。
粛慎が縄文人の先祖に近いというのは、同意できます。以前に関連記事書いてたので・・・。
さらに八雲の図は、西方や北西から雲が流れてきて、出雲大社の天井に集まったと示してますね。
これらを含めて検討すると、個人的にはこんな答えになりました。
出雲を構成する4つの国・地域
・高志=東の越国(北陸地方)
・北門の佐伎=穢貊(高句麗の前身)
・北門の農波=沃沮(濊貊の別種)
こうかと思ったその理由は以下の通りです。
北門は穢貊(高句麗の前身)だった
北の方角は、四神に照らすと玄武です。玄は亀と蛇の合わさった霊獣。
玄(くろ)は黒のことで、つまり黒い武人みたいな感じ。玄は句麗であり、北門とは、まさに武人の国、騎馬民族の高句麗のことみたいな感じしますね。
しかし、これは扶余や高句麗の前身である、穢貊(わいはく)ではないかと思いつきました。
穢貊
紀元前2世紀の中国東北部にいた「濊」「貊」は、濊貊・沃沮・高句麗・夫余の四種族の前身であり、現在の韓国江原道にいた「東濊(濊貊)」は前漢代の中国東北部にいた濊の後裔とされる。
濊貊系とみられる集団は、他に沃沮・部類(符類、附類)・高夷・東濊などと、貊と同音または近似音の貉・北發・白民などがある。
史書には、夫余の出自が濊とみられる記述があり、また貊を高句麗の別名または別種と記す。
・八雲(やも)・・・雲は「も」と読む(漢字の公式的な読み方)
・穢貊は朝鮮半島ではイェマクみたいになり、八雲(やも)、邪馬(やま)に近い
・穢貊(やまく、やま)と八雲(やくも、やも)だから違和感がない
・穢は「きたない」の「きた」で、貊は「も」的な発音ならば、穢貊(きたも)は北門(きたもん)
といった理由から、出雲の元になったのは、北門こと穢貊であろうと。
北門の佐伎とは、穢の後の扶余の政治体制から、支配階級だった「諸加」との関連が伺えました。
諸加ショカ →シャキ →サキ →佐伎みたいな。
北門の農波は穢貊系の沃沮だった
農波は一見して当てはまる国名がないです。しかし、農波とは濊貊の別種である、沃沮(よくそ)だと考えました。その理由とは
農波の解釈
・農 = たがやす
・波 = なみ→泪(なみだ)
と発想すれば
沃沮と似てくる
・沃 = 肥沃な大地 → 農の一字で表せる
・沮 → 泪(なみだ)にそっくり
と解釈できて、当時の出雲人が沃沮を農波と、別の呼び方を使ったんだと想像はできました。
北門(濊貊)の農波(沃沮)となるから、穢貊の別種の沃沮であると、ちゃんと認識したんだなと感心するわけでした。
これらの民族が、出雲を形づくっていると、八雲の図は言いたいのかなと。
するとずーずー弁というのは、古田武彦サンの言うとおり、日本海北部の言葉の反映なのはありかも。
似たような絵柄さがし
で、この特徴的な雲の形ですが、ヒントは。大陸にあるんじゃなかろうか?と思いました。
八束臣束怒の時代は新羅が登場するので、2世紀から4世紀ころですかね。
目星をつけた、騎馬民族、あとは中国新疆の西域(タリム盆地/タクラマカン)あたりで探してみました。
すると、新疆ウイグル自治区のタリム盆地の、敦煌(とんこう)壁画が目に止まりました。敦煌壁画は4世紀頃からあるもので、源流は紀元前からバクトリア(アフガニスタン)やタリム盆地あたりで始まった、仏教壁画に源流があるとか。
飛天、天女の壁画に、八雲の図と似た雲が、描いてあるではないですか。
每日頭條 那些優美的敦煌天女飛天壁畫,莫高窟發生的奇人奇事之十四原文網址:第397窟供養飛天
これ、出雲大社の八雲之図の絵柄と、まるっきり同じですよ。中央アジアの仏教美術を元にしたものが、古い時代に出雲に入ってたようですね。
以下はかなり自分本位の想像ですが
当初の騎馬民族は、西から東へ東へと向かいながら新天地を征服し、土地の異民族を殺し、または従順ならば配下に従え交わりながら拡大し、反旗を翻されて栄枯盛衰を繰り返す人々だったのですよ。
かれらは西はイスラエル、サカ、さらにギリシャ人が融合しつつ東進して、西域の烏孫、月氏、匈奴がうまれ、東の扶余、高句麗などを巻き込みながら、数百年かけて中東的な文化は踏襲しながら、だんだん東洋人的な割合を高めながら、東へ移動したというのは当たってる話なのです。
だから日本人の遺伝子しらべても、中央アジアより西側の遺伝子はなかなか出てこなかったりするのも当然かと。
すると八雲之図についても、鮮やかな仏教壁画の絵柄が中央アジアで彼らの中に取り入れられ、移動とともに満州の東夷の穢貊や沃沮にも入り、やがて海を隔てた倭の出雲まで至った。
だから八雲之図は、西方から雲が出雲大社の天井に集まるような、図柄になっている、という解釈は自然な話であるようでした。
あー、つかれたつかれた。
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