ニュースサイト見てたら、親魏倭王についての記事が目にとまりました。
で、また変な発想がでたので、今回は親魏倭王についての考察。
今朝コンビニ行ったついでに撮影した写真。
ところで自宅から離れた森の中でも、家にいる時と同じように爆音は響き渡ってる。
先日散歩した時の爆音
— たっちゃん@古代史研究 (@t7a7t0o1) December 31, 2019
自宅の西400mの森 pic.twitter.com/sjw3zyRZ7x
(音がよく取れなかった。イヤホンで聞こえる)
俺が爆音を出してるわけじゃないのに、近隣から一々不愉快をぶつけられる。
車ドアを思い切りバーン!閉めるおっさん。家の前に来て威嚇を繰り返すおっさん。雨戸バーン!する爺さん。玄関バタン!繰り返すおばさん。
気にしない努力とかして、怠け者をやめたりして、そっちに気を取られない努力はしているのですが・・・。
○いつも助かっております
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2012年から崇神天皇とは卑弥呼のことだと、持論を展開していました。
今回もひょんなことから、この仮設を後押しする材料を見つけ出すに至りました。
歴史上の一大人物だった卑弥呼は、三国志の魏の皇帝から親魏倭王の称号をもらった人物。
これは「魏志倭人伝」によれば、238年か239年のこと。
景初2年6月(238年)に女王は大夫の難升米と次使の都市牛利を帯方郡に派遣して天子に拝謁することを願い出た[15]。帯方太守の劉夏は彼らを都に送り、使者は男の生口(奴隷)4人と女の生口6人、それに班布2匹2丈を献じた。12月、皇帝はこれを歓び、女王を親魏倭王と為し、金印紫綬を授け、銅鏡100枚を含む莫大な下賜品を与え、難升米を率善中郎将と為し、牛利を率善校尉と為した。
原文には女王卑弥呼が魏に官吏を派遣し、その結果金印紫綬を受けたとあり。
したがって普通に見れば「親魏倭王金印」の授与者は、女王卑弥呼と見て間違いなさそうでした。
ちなみに古代中国皇帝が当時のアジアの諸国に贈った金印の例は、わずか。
・紀元前109年、滇王之印
・57年、漢委奴国王印
・133年、南匈奴骨都侯夫沈
・229年、親魏大月氏王
滇(てん)は中国雲南、南匈奴は中国内モンゴル、大月氏はアフガニスタン。委奴と倭は日本。
西にクシャーナ朝(大月氏)のカニシカ2世、東に倭の女王卑弥呼。って言う具合に、魏は両極に有力国を従えることで大陸の驚異を減らしたんですかね。
この他に玉印、格式の低い銀印や銅印などもあったとか。魏の卑弥呼に対する評価は、思いのほか高かったようでした。
倭人の中枢は大陸的だった
これは想像ですが、倭の邪馬台国は大陸系語学に堪能な集団でした。
魏へお使いした難升米と都市牛利も。漢文の詔書を読み書きできたにとどまらず。
彼らはバイリンガルかトリリンガルくらい、語学力があったのではないかと。
それもそのはず、彼らは純粋な倭人というか、中央アジアや西域から帰化した倭人だったのだから。
難升米という名前は、明らかに烏孫王、難兜靡の名を受け継いでました。
都市牛利はタジキスタン人の住むタシュクルガンの古名、塔什庫爾干を元にしてる印象を受けます。
難升米 nan-sho-bei
難兜靡 nan-to-bi(烏孫の王)
都市牛利 to-shi-gyu-ri
塔什庫爾干 ta-shi-ku‐ru-gan(タジキスタン人の街)
そういうことなのではないかと。
以前の記事
・中国史書を見る限り倭国の中枢はユーラシア各地からの帰化人だらけ
この烏孫とタシュクルガンは中国の新疆ウイグル自治区にありました。中央アジアのパミール高原に近いあたり。
「魏志倭人伝」によれば、倭国には、なぜか中央アジアの塞(サカ族)の担当官であるはずの、塞曹掾史(さいそうえんし)張政が派遣されていたりします。
たぶんサカ言語のほうが、烏孫系がいた倭の中枢部では、深い話ができたということなのかと。
魏の皇帝のあたりは、西の大月氏にも金印を与えていました。だから魏の上層部は、倭と中央アジアのことはかなり分かっていたはず。
だからサカを担当するはずの塞曹掾史張政が倭にいるのも、適当なことでは全くなかったりします。サカ語が通じる官吏がいたから、倭に派遣されたんだと。
古代の女性の男装癖についても、話さないといけません。
「日本書紀」で卑弥呼に同一視されて4世紀に新羅に出陣した神功皇后、高天ヶ原の支配者天照大神。
この二方は、男装して戦闘に挑んだ記録があります。
つまり卑弥呼も、外出時には男装してたのだろうと。その正体は、当ブログでは男性と伝えられる崇神天皇であるとしました。
男装の大元になったのが天照大神で、そのモデルが崇神天皇である卑弥呼で、120年後に男装を踏襲したのが神功皇后であろうと。
以前にこんな記事書いてました。
・卑弥呼は男装して出歩いてた・・・複数の記録に分断された卑弥呼
・卑弥呼を象徴する数字と三角形から導かれる「女王卑弥呼は天皇だった」
といった理由で、崇神天皇は卑弥呼で、なぜか壱与も同一視されていたのは、間違いないところ。
この点は「日本書紀」で卑弥呼と同一視されている4世紀の「神功皇后の事跡に、卑弥呼と壱与が合わさってる」という奇妙なところを見れば納得できたりします。
ではなんで、親魏倭王と瑞籬宮に繋がりがあるのか。
シンギュラリティは近い―人類が生命を超越するとき Kindle版 レイ・カーツワイル (著), 小野木 明恵 (翻訳), 野中 香方子 (翻訳), 福田 実 (翻訳), & 1 その他
瑞籬宮(みずかきのみや)というのは「日本書紀」と「古事記」に登場している、崇神天皇の住居の名前です。
古事記の方では水垣宮とあって、どちらも「水の垣根があった」かのような形状を想像できます。
それで以前の記事にも瑞籬宮は環濠を持った居城であろうということは書いてました。
おそらく奈良ではなくて、福岡の朝倉市から見つかっている、平塚川添遺跡という環濠集落がこの瑞籬宮ではないかと想像しています。
以前の記事。
一方で中国の「魏志倭人伝」や日本の記紀には、卑弥呼と天皇の居城を結びつける要素が、一見して何も書いてません。
居處宮室樓觀 城柵嚴設 常有人持兵守衛
居処には宮室と楼閣あり、城柵を厳かに設け、常に人あり兵で守衛する
これは、女王が瑞籬宮に住んでいたから、親魏を冠しているのではないかと。大月氏は別のところに置いといて。・・・え?
「親」を辞書で引くと、こうありました。
親の解説 - 小学館 大辞泉
しん【親】
[音]シン(呉)(漢) [訓]おや したしい したしむ ちかい みずから[学習漢字]2年
〈シン〉
1 父母。おや。「親権/養親・両親・老親」2 縁続きの身内。「親戚 (しんせき) ・親族・親類/近親・肉親」
3 身近に接してしたしくする。したしい。「親愛・親交・親切・親睦 (しんぼく) ・親友/懇親・和親」
4 自分で直接に。みずから。「親告・親書・親政・親展」
みずから・・・
今は全く使わない読み方ですが。
これと魏を合わせるとどうなるか。
このだじゃれや言葉遊びが、親魏倭王の称号に繋がっているとすれば面白いなと。
これが重要なのは、親魏倭王こと卑弥呼のの居城が、崇神天皇の瑞籬宮であると示唆されていることです。
以前から拙著や当ブログで私的してきた通り。
親魏の2文字を使って「瑞籬(親魏)の倭王」であると言うなら、卑弥呼はやっぱり崇神天皇のいた瑞籬宮に住んでいたのではないかと。
その崇神の正体は、卑弥呼が男装してた、ということで良いのではないかと。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ちなみに
じゃあクシャーン(大月氏)のカニシカ王が貰った、「親魏大月氏」は?
まぁ、クシャーンなだけに、
親魏→魏親(ギシン)→ギシャーン→クシャーン
こんな言葉遊びができた。魏親なだけに、疑心暗鬼。