たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅お仕事中。

平城京の名前の由来が平塚だったかもしれない件

ていせつ、たいせつですか。

定まった説と書く定説は、正解も含まれるけれど、間違いも含まれているようだから。

 

20年前の教科書と今の教科書の同じ歴史的出来事を、読み比べてみれば分かります。20年前の定説がまるっきり違う解釈になっていたりする。

早合点や鵜呑みして落ち着く前に、ちょっと考えてみたら、ホントの答えが出るかもしれないので、いろいろ検討するのが習慣づいていますが。

 

「何と(710)素敵な平城京

「鳴くよ(794)坊さん平安京

「いい国(1192)作ろう鎌倉幕府

 

最近の鎌倉幕府の始まりについても教科書では定説が覆っていて、「いい箱(1189)作ろう鎌倉幕府になっているとか。

 

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そういえば今日(5月20日)、先日購入していた単管パイプで、屋根修理の足場を組み立てました。

真面目にパイプを組んでいる途中、隣のおばさんがずーーーっと何か言いつつ台所やドアでガンガンと叩き返してくるので、切れそうでした。悪魔の悪戯か地獄の2丁目あたりかと思いました。

20日ころは深夜も朝もゴンゴンゴン壁を叩かれ過ぎたりして、イライラが募っているところでした。インターネットで自分についての悪口を見つけるより、寝てるのを悪意で起こされるほうが、ムカついてしまう。

世界には俺を怒らせることに躍起になる人がいるらしい。バーベキューにでも躍起になってればいいのに。

 

 

平城京は「ならのみやこ」と読んだ

 

ところで奈良時代とは、710年の平城京建設から、桓武天皇平安京に移転する794年までとするのが一般的だといいますね。

この時代区分には、仏教的な天平文化大宝律令という独自の概念が影響してるらしい。

それで、なんとも素敵だったらしい平城京は、音読みでは「へいぜいきょう、へいじょうきょう」が使われます。

どうして平城京と呼ばれたのかの定説は、「平らにする」を意味する「平す(ならす)」が語源だとか色々言われています寝。

それを補足するように、平城京と書いて「ならのみやこ」と読む正倉院の書物があり、別名で奈良京や寧楽京もあったとか。

しかし「ならす」という動作を語源にするというのも奇妙な感じがする。

 

 

ところで安本先生

 

邪馬台国は筑紫の朝倉で、卑弥呼の居城は平塚川添遺跡

・筑紫の地名が奈良盆地に移された(筑紫と奈良は地名が全くおんなじだから)

邪馬台国は筑紫から奈良盆地に移転している(邪馬台国東遷)

 

そう断言してるのが安本さんですが、別に個人的に信奉してるとかそういう訳ではないです。物的証拠(地名)を備えている、信じられる仮説だなと思って色々参考にしています。

筑紫=元奈良(首都)

 

だから地名が一緒

この仮説を元にすると、平城京(ならのみやこ)の名の由来も分かる気がしてきました。

何故かと言うと、筑紫にあった平塚川添遺跡が、奈良盆地平城京の名に対応している可能性があるからです。 

 

 

平塚は古地名か

 

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これを知るには平塚川添遺跡の平塚とは、古地名かを調べる必要がありました。

明治22年の町村制以降の際に、平塚村の名が出ていました。この時に平塚村など幾つかの村が集まって福田村が誕生していました。

江戸時代には福岡藩秋月藩の藩領として、平塚村の名があります。

下座郡 - Wikipedia

 

というわけで平塚村は少なくとも江戸時代にはあった古地名でした。平塚川添遺跡という大きな集落があったからには、奈良時代より前から平塚と呼ばれていた可能性は高そうです。

ただ想像と違っていたのは、平塚村の場所が下座郡だったこと。実は平塚川添遺跡は卑弥呼の居城なら、上座郡ではないかと考えていたので意外でした。

これは幾つか理由があるのではないかと。

上座郡下座郡は、古墳時代以前は元々「座郡(あさくら郡)」だった

・当時の座郡には、上・下の区別がなかった

・座郡の中心の平塚川添遺跡は、時の権力者が住まう上座的な役割だった

古墳時代の頃に平塚川添遺跡が埋め立てられ、単純な区分けとして下座郡のほうに入れられた

 これは想像した仮説ですが。

 

座といえば、 

 

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平塚京と平城京 

 

筆者的には平塚川添遺跡とは崇神天皇の瑞籬(みずがき)宮と同様であると捉えるのですが、地名としても弥生時代の後期~末期頃に、平塚があったような感じもしました。

 

それは平塚という地名を音読してみるとわかります。

 

呉音 チュウ

漢音 チョウ

塚 - ウィクショナリー日本語版

日本語では清音が濁るのは一般的で、茶屋はぢゃや、釣りはづり、時計はどけい、というふうに。江戸時代の草書では、濁点を省略していたりするので、清音と濁りの区別すらも曖昧でした。

それでこの塚は、「チョウ」を濁って「ヂョウ、ジョウ」と読んでも良いことになります。

 

だから音読みしてみれば

平塚(へいぢょう)村

平城(へいぢょう)京

 と、全く同じになってしまいます。 

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筑紫平野の地名が、奈良盆地に移された。

それならば筑紫平野の平塚の重要な都市の名も、奈良盆地に移されて平城京となった。

これもまた真理ではないかと。

 

平城京命名者(時の天皇元明天皇?)は、平塚川添遺跡のことを聞き及んでいて、それほど重要だったからこそ、「へいぢょう」の名を使ったのではないだろ~か。

何故へいぢょうが重要だったか?それは卑弥呼がいた場所だったから。

この平城京の建設者が、斉明天皇の意思を継いだであろう元明天皇だったことで、それは確信に変わります。

以前の記事

皇極天皇(斉明天皇)が意識した女王卑弥呼と女王壱与

崇神天皇の桑間宮と池から想像できた吉野ヶ里遺跡の正体

 

奈良の平城京の名の由来は、福岡の平塚川添遺跡だった説。

これは偶然では済まされないのではないかと。勝手に考えているだけです。

 

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