たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅お仕事中。

卑弥呼の居城は「上座」の環濠集落という想像

人生における障害の多さ競争なら、上位に入っておかしくないと確信しているこの頃。

近ごろ心臓が変になってから、屋根修理も進まないし、散歩もできなくなった・・・。それでも生活費くらいは稼ぐため、ライターの仕事しなきゃ生きていけないし、というわけで電子書籍もブログ更新も停滞してきました・・・。

俺もう死ぬんじゃないだろうかと、心によぎることが多くなったので、卑弥呼の居城について気づいたことをまた少し書き残しておこうかと。

 

 

 日本の上と下

 

日本では昔から偉い人が座る場所として、「上座」というのが決まってたんですよ。ビジネスマナーとかいう、俺には無関係な分野ですが。

部屋とかテーブルで言うと正面奥、車でいうと後部座席の運転席側。部屋全体を眺められる奥が上座となったとか。それ以外は下座で序列も決まって、下っ端は安い席に座るのが常だったとか。

地方自治体でも上座・下座が地名に反映されてましたね。例えば北関東では京の都に近い側が上野国(こうずけのくに)、京から遠い側が下野国(しもつけのくに)で、これがいまの群馬・栃木ですよ。

あとは今でも日本という国単位で見て、上座といえば皇居、京都御所みたいなことも当てはまっていますね。だから国道・高速道路や鉄道では多くの場合、上りと言えば東京向き、下りと言えば東京から地方へ向かう意味なわけで。

 

昔は平安京大内裏平城京大極殿が、上座にあたってました。

弥生時代にも上座があったかどうか。これは学者の意見を見たことがとことん無いけれど、しかし古代には女王、大王(おほきみ)という支配者が厳然とあったのだから。地名でも大王室マナーとしても、上・下があったのは確実です。

そうすると、つまり弥生時代の女王卑弥呼の居城は、必然的に「上座」だったはずなのですよ。これは女王が記録された以上は絶対的です。

 

 

大規模環濠集落

 

いま環濠集落と呼ばれている特殊な古代の集落があります。古代の集落なのだと言っていて、教科書にもそう書いているのです。

しかし、実はあれ、普通の集落じゃありません。高貴な人々、豪族、王族、天皇家の一族や眷族が住まう居城でした(想像だけど)。

安土桃山時代や江戸時代、各地の武将や藩主一家が住まう、周濠の城郭と機能的には同じでした。 弥生時代で言えば奴国、投馬国、邪馬台国など、小国の中枢が置かれた場所が、「水城」として作られていたのです。

 

環濠集落は各地に見つかってますが、全国で数が極めて少ないです。それは当然、それぞれが元々地方豪族や国王の都なのだから、多数あったらおかしいわけで。

弥生時代の諸国の首都が置かれた場所だけ、環濠集落が作られました。首都機能が移転すれば、環濠集落は土に埋められてしまったのも、当然のことでした。あれは自然に衰退したんじゃなく、意図的に埋められていますね。

 

だから弥生時代の「魏志倭人伝」に登場する、対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国不弥国、投馬国、邪馬台国・・・といった数々の古代国家の「首都をみつけたい」となれば、環濠集落を探せばいいのではないかと。

 

つまり弥生時代の女王国の頃にあっては、ある特別な居城を含む集落が、当時の上座にあたっていました。その中でも邪馬台国卑弥呼の居城は、上座中の上座であり、1,000人の従者が住まう規模があってどこより大規模だったことは、「魏志」にある通りです。

建物は高殿、櫓、住居、倉、会堂、食堂、兵舎など含み100棟~500棟もあったと想像できます。 

全国の環濠集落のなかでも、直径300メートルを超える大規模環濠集落の場所は極めて限定的でした。

近畿なら

・唐古鍵遺跡

・池上曽根遺跡

 九州では

・吉野ケ里遺跡

・平塚川添遺跡

こんなところではないかと。

筆者は九州の環濠集落遺跡の、佐賀県の吉野ケ里遺跡、福岡県の平塚川添遺跡、この2つのいずれか、あるいは両方ともが、当初の邪馬台国の中枢だったと見ています。

 ちなみに奈良の纏向遺跡は環濠らしきものは確認されていませんが、複数の河川を自然の環濠としていたと見て間違いなさそうです。邪馬台国東遷後の邪馬台国=大和の都ではないかと。

 

 

卑弥呼の居城のキーワードは三輪山大和三山 

 

卑弥呼のいた最初の居城には、三輪山大和三山が切っても切り離せない。

と、そんな気がしました。

三輪山と、大和三山の天の香具山は、神代の時代からすでに登場していて、倭迹迹日百襲姫命の逸話にも登場してました。

卑弥呼天照大神倭迹迹日百襲姫命と重なる人物であれば、「三輪山大和三山のそばに、卑弥呼は居住しなければならない」のであると。そう考えたのです。

  

福岡県の筑後平野には、奈良盆地にヤマトが東遷する以前の、ヤマトの首都がありました。と言ってもこれは個人的に支持する仮説です。

その理由は、安本美典氏の著書「天照大御神卑弥呼である」にあるとおり、奈良盆地とそっくり同じ地名が残されているから。

 

九州と近畿にあった、むかしの大きな地名を比較するだけでも、こんなに一致してました。 

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今はなき拙著「日本の地名の真の由来と神武東征のカラクリ仕掛け」より。

 

 筑後平野には奈良と同じように大三輪山があり、ここが大物主神を祀っていたであろうことは想像が付きます。倭迹迹日百襲姫命三輪山の大物主に嫁いだのだとすれば、この 筑後平野の大三輪山が、その舞台だったかもしれません。

その情報を、東遷した後の奈良盆地でも再現して見せ、邪馬台国が奈良に東遷、三輪山が誕生していると考えられます。

 

 

吉野ケ里遺跡は神の土地にある

 

国の特別史跡、吉野ケ里遺跡のほうは、環濠集落の中にさらに複数の環濠の中枢が作られているようでした。

こんな構造は当時の都市でも破格の構造であり、弥生後期の戦乱時代の王都というにふさわしく思われました。

しかも古代の自治区分けでは「神埼郡」の範囲にありました。古代の国郡里制で、「神」が付く地名はほんのわずか。

神の土地であったというのが、卑弥呼の支配地の居城として説得力を増しています。

上座は神座なので。

 

 

平塚川添遺跡

 

もうひとつの平塚川添遺跡のほうは、三重環濠集落として知られる遺跡でした。

個人的に崇神天皇卑弥呼であろうと、考えているわけですが。

その崇神天皇の居城、瑞籬宮(水垣宮)が「三つの水の垣」をあらわすとするなら、元々の水垣宮とは三重環濠集落である、平塚川添遺跡の可能性がおおきくなるんではないかと。

 

平塚川添遺跡には、竪穴式住居が大小が300軒、住宅や倉庫など多目的に使われたと見られる高床式は、100軒確認されていているとか。居住人口は1,000人を超えたと見られます。

奈良の三輪山のそばには三輪山大神神社があり、その南方に崇神天皇の瑞籬宮伝承地があるのですが。

その位置関係が、福岡の筑後平野の大三輪山大己貴神社と、平塚川添遺跡の間で一致していました。

 ・卑三輪だったかもしれない卑弥呼と三輪山の地形から求める邪馬台国の所在地

 

 

平塚川添遺跡は上座にある

 

平塚川添遺跡が所在しているのは、福岡県の朝倉市です。この地名はいにしえに女性天皇である斉明天皇が営んだ「朝倉橘広庭宮」、通称朝倉宮の名が元になっていました。

この地名の由来は斉明天皇よりも前に筑後平野にあった、「上座郡」にあるのではと考えてみました。

というのも古い書物では、上座と書いて「かみつあさくら」と読ませているのです。福岡県の朝倉宮や、朝倉市の名の元になってました。

朝倉宮の名は、奈良の初瀬朝倉宮と1対の関係をあらわすために、名付けられたのかもしれないなっと。

 

古代の上座・・・というからには、この上座郡の土地が、どこより高貴な人が住まう場所だった可能性があります。なにしろここには巨大な平塚川添遺跡の環濠集落もあるのだから。

 そして平塚川添遺跡こそが真の卑弥呼の居城で、しかも崇神天皇の瑞籬宮で、邪馬台国の中枢じゃないかと考える理由は、したの図で表しました。

 

筑後平野に「元大和三山」があったのではないか、という想像は2014年の電子書籍の中で書いていました。

それで、奈良の大和三山と比較すると以下の通りです。

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筑後平野       奈良盆地

雲野尾峠(うのび)  畝傍山(うねび)

香山(かぐ)     香久山(かぐ)

耳納山(みのう)   耳成山(みみなし)

三輪山(大物主)  三輪山(大物主)

この仮説「筑後平野の元大和三山」の解釈は、わたくし如きの戯言ではございますが・・・。

 

 筑後平野の元大和三山を結びつけると、二等辺三角形になるのですが、この中心線をまっすぐ引いていくと、筑前町の大三輪山に達してひし形を描くことは気がついていました。

この構造は奈良盆地でも同じで、奈良盆地大和三山を結びつけると、中心線の先に三輪山がこんもり姿を見せるのですよ。

 

  この2つの土地は、図にある通り、大和三山三輪山によって描かれるひし形を中心としていたようなのです。

筑紫の場合、このひし形の北側が、ちょうど上座郡でした。

しかもここに平塚川添遺跡が存在しているというのは、おそらく奈良盆地でも同じように対応させてあるようです。

「三重環濠集落の平塚川添遺跡」に対応するのが、崇神天皇の「瑞籬宮(3つの垣の宮)」であることは、計画的だったわけです。

纏向遺跡も平塚川添遺跡と対応する首都なのかもですが、図に描き忘れました。

 

ともかく平塚川添遺跡が、弥生時代後期の上座で、三重環濠集落が卑弥呼の居城であったという条件は揃っているふうにみえます。

そういえば、平塚川添遺跡のあたりは「卑弥呼の里」として既に売り出してるとか。平塚川添遺跡が発掘されて以降、安本美典説(邪馬台国朝倉甘木説)がかなり受け入れられているらしく。

 

ちなみにこの図に描いた、佐賀の吉野ヶ里遺跡に対応している環濠集落が、奈良の唐古鍵遺跡であると考えられました。両者は互いに役割や血縁でつながりがあるのでは。

  

 

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