たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅お仕事中。

応神天皇こと誉田別尊と、金官伽耶(狗邪)の王子がトレードした説

わたくし誰が見ても普通の人じゃないので、今後の行動についても、これまで通り、常軌から外れがちですので。

 

ところで応神天皇については、「外国の王がやってきて、応神天皇として入り込んだ」「天皇家応神天皇んところで百済王朝になった」という説があるのです。

これについても、保守的な人は、そんなのあるわけないと鼻で笑っていますよね。でも、鼻が通りそうになる重要な記述が「日本書紀」には残ってました。

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誉田御廟山古墳 - Wikipedia

 

神功皇后と皇室の対立

 

神功皇后が新たに子を生んだとのニュースがでたのは、百済から七枝刀をプレゼントされた4世紀後半。神功皇后の義理の息子である坂皇子と、異母兄弟の押熊皇子は、皇位を奪われると考えて義理の母に戦をしかけるのです。結局坂皇子と押熊皇子は戦いに負けて、妙な死を遂げてしまいました。

この話、なんか変じゃないですか。なんで新たな子が火種となっているのかと。

かご坂皇子 - Wikipedia

 

胎中天皇

 

応神天皇の出自については、神功皇后新羅出兵のとき、お腹の中に15ヶ月もいてから、筑紫国の宇美で生んだとかいう変な伝説がありました。「宇美で生みました」とかいう、むかしのダジャレ付きで。

応神天皇は、胎中天皇という変な異名も持っていました。「たいちゅうてんのう?」いや、胎中天皇(はらのうちにましますすめらみこと)。

 

神功皇后の妊娠期間が、15ヶ月というのは普通じゃないです。どんだけ居心地が良かったのかと。

むかしは2倍暦年とか言って、「1年を2年にふくらませる暦」が用いられたのも事実と考えられています。だから神功皇后の話についても、2倍暦年を用いてるんじゃないかって話もありです。

しかしこれ意外に、ある1つの仮説によって、説明するには十分な感じがしました。

 

応神天皇は2人いた

 

それは簡単に言ってしまうと、神功皇后が生んだ子供は2人いたんではないか?という話で済ませられます。

新羅から倭に戻る2年か3年の間に、応神天皇のほかに、半島のほうでもうひとりの子を生んでいる。

だから、2人の赤ちゃんの妊娠期間を合わせて、15ヶ月としているのであると。

 

 実はこのことを示唆するんじゃないかという記録が、15ヶ月のほかにも、「日本書紀」のなかにあるんですね。

応神天皇が即位した直後の、「日本書紀」の話。

「ある説によると、天皇がはじめ皇太子となられたとき、越国においでになり、敦賀の笥飯大神(けひのおおかみ)にお参りになった。そのとき大神と太子と名を入れ替えられた。それで大神を名付けて去来紗別神(いざさわけのかみ)といい、太子を誉田別尊(ほむたわけのみこと)と名付けたという」

日本書紀」(上)全現代語訳p210より

 応神天皇こと誉田別尊は、去来紗別神(いざさわけのかみ)と言う謎の神と、名前を入れ替えたって話。

つまり応神天皇が子供の頃、

応神天皇と全く同格な人物がもうひとりいた。両者は入れ替わっている、そういった事がわかるのですが。

 

去来

  1. 去ることと来ること。行ったり来たりすること。ゆきき。往来。「心中に去来する思い」
  2. 過去と未来。

去来(きょらい)の意味 - goo国語辞書

この時、1人の神がやってきて応神天皇となり、元の応神天皇が神となって去ったのだと。だから2人の応神天皇兄弟が「去来」していると。想像ができるのですよ。

 

こっそり入れ替わってしまった知られざる人物が、皇族の新応神天皇として血筋を担っていくわけなのです。

 

金官伽耶に去来した応神天皇

 

・元の去来紗別神はどこから来て、新たな誉田別尊になったのか。

・元の誉田別尊は、新たな去来紗別神となって、どこへ行ったのか。

この2つの謎の回答は、両方共に、「金官伽耶に去来した」と回答するよりないです。

 

 最初、「応神天皇百済に去来したんではと考えてたのですが、どこを切っても金太郎飴ならぬ金官伽耶飴でした。

伽耶 - Wikipedia

 

金官伽耶とは

元々倭人加羅と呼んでいた地域で、今の韓国の慶尚南道あたりです。対馬のすぐ西北のあたり。

ここはかつて倭人の拠点があった土地でした。金官伽耶より遡れば、インドのサータヴァーハナ朝の王女と婚姻したという首露王の時代。さらに遡れば倭の最北端だったという狗邪韓国、弁韓、紀元前に辰国と言われた場所でした。

ぶっちゃけ言うと、金官伽耶王朝は、天皇家の神話と同じ形態の神話を受け継いでいました。だから、天皇家の血筋だったようです。加羅人の言葉も、研究によれば倭語の亜種であると言われています。

 

2人の応神天皇が、金官伽耶に去来した。その証拠は、応神天皇諡号の中にあります。

 

倭王讃こと応神天皇の実在年代

 

日本書紀」で応神天皇は111歳、「古事記」では、応神天皇は130歳としているので、普通に考えたら長過ぎます。2倍歴年で当たってるあ考えることができます。

応神天皇は実際のところ、4世紀末から5世紀前半ころ、実在したんじゃないかとされます。

それは「宋書倭国伝の永初2年(421年)や「梁書」に登場する倭国王讃と同一ではないかという見方を元にすれば。

倭王讃の時代は、西暦430年台まで続いたと、「宋書」からわかります。倭王讃国史書に登場は421年、425年、430年、438年。

おそらく倭王讃応神天皇とは、390年台から430年台ころまでの人です。

 

応神天皇諡号が現す金官伽耶王との繋がり

 

誉田別尊(ほむたわけのみこと)というのは、古事記では「品陀和気命(ほむだわけのみこと)」と書くのです。

 

じつはここで、金官伽耶王のほうにも注目したいと思いました。

応神天皇が在位したまったく同じ頃、金官伽耶の王様はこんな名前だったから。

 

金官伽耶王=伊尸品王(いしひんおう)

 いしひんおう~?

 これだと分かりづらいですが、

金官伽耶 伊尸品王 品

倭国王 応神天皇品陀和気命 品

応神天皇の和風諡号とは、「品」の字で合ってますね。なんで同じ時代の王が、同じ名前なのかってのは、偶然で済ませれば簡単です。

 

金官伽耶 伊尸品王 346~407年

倭王讃品陀和気命)390年台~430年台(推定)

 しかし見てわかるように、伊尸品王は応神天皇よりかなり年上です。入れ替わってるのはこの2名じゃないです。

 

伊尸品王の息子だった坐知王と、品陀和気命の両者が、トレードしていると見ています。

 

坐知王と品陀和気命の共通点

 

この両者は、完全に同じ時代の統治者でした。年齢的にも容姿的にも、もしかして似ていたのではないかと。

 金官伽耶 坐知王 407~421年

 倭王讃品陀和気命)390年台~430年代(推定)

 

気になるのは、神の称号。

品陀和気命は、漢風諡号では応神天皇というのですが、坐知王は、「神王」と呼ばれてたのです。

金官伽耶 坐知王 

倭王讃 品陀和気命 応天皇

神が付く王や天皇は、神武天皇崇神天皇神功皇后(神功天皇)、応神天皇くらいで、、すごく少ないです。

金官伽耶の方を見ても、神が付く国王は、坐知王意外には見当たりませんでした。

この2人が同じ時代にいるというのが、まず怪しい点。この坐知王が去来紗別神だったのではないか?と。

 

 あとは去来紗別神(いざさわけのかみ)の名との関係です。

 坐知王は、大和言葉で発音すれば「坐(すわり)知(とも)王(みこ)」

・坐というのは「いざ」のざ。

・坐は「すわる」「すわ」。

「去来紗別(いざさわけ」にふくまれる「ざさわ」が、「坐(ざ・すわ)」には入っているな~といった感じです。それでやっぱり敦賀応神天皇が出会った去来紗別神というのは、金官伽耶の坐知王だったのではないかと。

 

 

日本現代怪異事典

 

人人

 

あと、応神天皇こと倭王讃の漢字と、坐知王の名前でも。

讃の字には、「夫夫」が入ってますが、これは「人人」にもなりますね。

一方で坐知王の「坐」は、「人人」と書くのですね。中国史書「宋書」など見ても、両者の同一人物説が補強されるのです。

 

応神天皇と坐知王は両者「とも」の王

 

応神天皇は別名を「大鞆和気(おおともわけ」と言ったのです。鞆(とも)とは手を守る防具のこと。腕っぷしが立派だったからとか、後付の理由が付いています。これは「ほむた」と呼んで、応神天皇諡号「誉田(ほむた)」を別の言い方にしたもの。

しかしこの鞆(とも)、完全に重要なキーワードでした。何故かと言うと。

応神天皇 鞆(とも)

・坐知王  知(とも)

両者とも、「とも」が入っているのですね。これも神と同様、偶然じゃないなと。両者とも「とも」と呼ばれる人だったのです。

 

母親の名前

 

応神天皇の母親は、神功皇后ですが、本名を気長足姫尊、息長帯比売命(おきながたらしひめ)というのですね。息長というのは姓名で、息長宿禰王の娘です。

だから神功皇后の本名は「たらしひめ」です。もっと突き詰めれば、「たらし」

 

それで、気になるのは金官伽耶の、坐知王の母親の名前でした。母は「貞信」といったのですが、詳しいことは何もわかりません。

 この人物の名前もどうも、妙に神功皇后に似てる要素が入ってるなと。感じ取れたのですが。

たらし Tarashi

貞信  Teishin

これ、たらし姫が訛って、たーし姫、て-し姫、漢字で書いて、貞信姫になったような、印象を受けるのですよ。

国が違うと、言葉も特有に鈍るので、そのへんで分かり辛いのであると。カラオケが、アメリカでは「キャリオキ」になっちゃうみたいな話。

 

勿論想像にすぎないですが。貞信とは、金官伽耶で記録された神功皇后なのではないかと。

つまり神功皇后は、仲哀天皇なき後、こっそりあちらで金官伽耶伊尸品王と関係が出来上がって、去来紗別神こと坐知王を生んで、貞信と記録されたんですね。

 

ここまでのまとめ

 

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偶然でこんなに一致するわけ、ないですから。

 

年代が一緒で、珍しく神が付く王であり、ともの名で一致し、品の名で父親と一致し、入れ替わったという去来紗別神の名に近く、母親の名前も似てた・・・。

ということで、応神天皇こと誉田別尊と、金官伽耶(狗邪)の王子がトレードしたんではないかと。そういった可能性はあるかもと。

金官伽耶天皇家同様に、天津神系の神話を保持する王族でした。神功皇后金官伽耶にそそのかされ、金官伽耶王と自身の子である坐知王と応神天皇をトレードすることで、両国の政略的な関係強化をはかったのであると、そんな感じかもです。

 

そうすると、麛坂皇子と押熊皇子が、義理の母の神功皇后に牙を剥いた理由は。

金官伽耶天津神系の天皇系の国でした。それに坐知王は神功皇后の息子。であるにしても、金官伽耶という部外者的な坐知王を、応神天皇に入れ替えようとする神功皇后の陰謀に対して、皇族側は猛反発したんですね。で、反乱の先頭にたったのが坂皇子と押熊皇子皇。いわば皇族側の抵抗戦争だったのかと。

しかし結局、全ては、百戦錬磨で天照大神の威光を背にする、神功皇后の思い通りになってしまいました。

 

すると、こういうことなのですが。

1・倭の仲哀天皇神功皇后の間に、誉田別尊が生まれ、

2・金官伽耶の伊尸品王と神功皇后の間に、坐知王が生まれ(新羅出兵の時)

3・誉田別尊と坐知王(去来紗別神)の兄弟は、金官伽耶王と神功皇后の意向でトレードした

4・だから神功皇后と皇族による戦争が起こった

5・その後の天皇金官伽耶系となった

 

まぁ、全部想像ですけど。応神天皇兄弟の入れ替わりが、実現している要素は揃っているかと思います。

  

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