なんかおかしいと思っても、古代の出来事の場合は真実にたどり着くのは至難の業です。
タイムマシンでもないと、調査の結果が真実かどうか確かめる術はなかったりします。
でも調べてみるのと調べないのでは、大違いなんですよね。何でもそう。
定説が存在していても、調べてみると誰も知らない事実が、ぼわ~っと見えて、今までの定説っておかしくない?となれば革命の一歩。
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○いつも助かっております
志賀島の金印
漢委奴國王印は志賀島から出土した、1世紀の歴史上の遺物であり、いまは国宝になっているそうです。
この金印については、1世紀の情報が詰まった「後漢書」の、以下の文とも整合していました。
『後漢書』の記述との対応
建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬
志賀島の出土地と、金印が見つかった経緯は、ウィキペディアで以下のようにあります。
出土地
1914年(大正3年)、九州帝国大学の中山平次郎が現地踏査と福岡藩主黒田家の古記録及び各種の資料から、その出土地点を筑前国那珂郡志賀島村東南部(現福岡県福岡市東区志賀島)と推定した。その推定地点には1923年(大正12年)3月、武谷水城撰による「漢委奴國王金印発光之処」記念碑が建立された。その後、1958年(昭和33年)と1959年(昭和34年)の2回にわたり、森貞次郎、乙益重隆、渡辺正気らによって志賀島全土の学術調査が行われ、金印出土地点は、中山の推定地点よりも北方の、叶ノ浜が適しているとの見解が提出された[3]。
1973年(昭和48年)及び1974年(昭和49年)にも福岡市教育委員会と九州大学による金印出土推定地の発掘調査が行われ、現在は出土地付近は「金印公園」として整備されている。
発見の状態について江戸時代天明年間(天明4年2月23日(1784年4月12日)とする説がある)、水田の耕作中に甚兵衛という地元の百姓が偶然発見したとされる。発見者は秀治・喜平という百姓で、甚兵衛はそのことを那珂郡奉行に提出した人物という説もある。一巨石の下に三石周囲して匣(はこ)の形をした中に存したという。すなわち金印は単に土に埋もれていたのではなく、巨石の下に隠されていた。発見された金印は、郡奉行を介して福岡藩へと渡り、儒学者亀井南冥は『後漢書』に記述のある金印とはこれのことであると同定したという。
なお、糸島市の細石神社には、「漢委奴國王」の金印が宝物として伝わっていたが江戸時代に外部に流出したとの伝承(口伝)がある。
その他
前略
三浦佑之は著書『金印偽造事件―「漢委奴國王」のまぼろし』において、
発見時の記録にあいまいな点が多いこと
江戸時代の技術なら十分贋作が作れること
滇王之印に比べると稚拙などの点を根拠に亀井南冥らによる偽造説を唱えた[29]。
めでたしめでたし。でも別に良いんですが。
志賀島で金印が出たというけど、これってなんかおかしくないですか?って思ってる人は、過去にもいたようです。
出土地については、これまで漠然と志賀島だと思っていましたが、志賀島といっても意外と広く、南北に3.3キロ、東西に2.4キロほどもある島なんです。
上にある記述を元にして、志賀島の金印推定出土地を地図に示してみました。
1914年(大正3年)から1974年(昭和49年)にかけて、都合3回も出土地点が移動していたんですね。
叶ノ浜については、グーグルマップで検索すると志賀島の南西が表示されたので、ウィキペディアの記述と合っていません。地図ではグーグルの表示に従って表示。
発見地点が3カ所も移動してるということは、発見場所の特定には困難を極めた様子。
江戸時代の1784年、甚兵衛、秀治、喜平という3名の人物が水田耕作中に金印を見つけた巨石の場所は、はっきりせず漠然とした情報しか残って無かったらしいです。
要するに現在の金印公園の場所も、ほんとうの金印発見地点じゃないかもしれないんですが。まあ分かんないし、このへんでいいや、みたいな・・・。
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志賀島の金印にまつわる陰謀
まぁそれはともかく、なんで金印は、歴史上ではそれほど重要拠点もなかった志賀島にあったのかは、気になりますね。
一巨石の下に三石周囲して匣(はこ)の形をした中に存したという。すなわち金印は単に土に埋もれていたのではなく、巨石の下に隠されていた。
それに、金印を志賀島の巨石の下に仕込んだのは誰なのかということも。
A・1世紀を含む弥生時代、奴国王印を受け継いだ何者かが、志賀島の巨石の下に隠したのか
B・甚兵衛を利用し、金印が志賀島から発見されたように見せかけた、謎の人物がいたのか
関連して、こんな本があったとか。
あの国宝「志賀島金印」発見は、大芝居だった?
著 明石散人
講談社 /講談社文庫 [歴史ミステリー] 国内果たして、国宝金印は本当に志賀島から出土した物なのか
天明四年当時、全国の大名達は硬直した藩政に対し、立て直しの優秀な人材を要職に抜擢するために続々と藩校を開校させていた。しかし、福岡藩では三代にわたる城主の夭折に見舞われ、推進役の相次ぐ不幸に藩校の開設は頓挫。熊本藩より遅れること三年目にしてようやく開校に漕ぎつける。
だが、この時期に儒学者亀井南冥は、既にある藩校を差し置いて明らかに異例な第二の藩校の開校を主張していた。結果は福岡藩四人の重臣の意見は真っ二つに割れ、苦肉の策として二つの藩校が認可、南冥は破格の大抜擢を受ける事になったという。
こうして、藩儒筆頭三百石の名門出の竹田定良が率いる「修猷館(しゅうゆうかん)」と、かたや十五人扶持儒医の亀井南冥の「甘棠館(かんとうかん)」というライバル校の並立が始まった。そして、お坊ちゃんと叩き上げという二つの藩校の館長は、開校当時から学問以外でも悉くいがみ合うのだ。
当然ながら主流の修猷館の方が規模も大きく正統性を主張。また現実には門下生の勢力も修猷館が六百人余りで勝り、甘棠館はその三分の一程度であった。果たして、劣勢の甘棠館でも後には退けない亀井南冥が勝てる機会はあるか?
福岡藩における奇異な二つの藩校の同時開校。志賀島の金印は、実にこの両校が開校した天明四年の二月、まさにその月に合わせた様な発見だった。
志賀島百姓「甚兵衛口上書」から端を発した島内の叶の崎から出土したという金印。第一発見者の甚兵衛が実在不明であることや発見場所の特定と出土年月日の記載がない鑑定書など、不可思議な事実が浮かび上がってくる。
また発見に関わった人物像も、甚兵衛の後見役の庄屋から郡奉行に至る七人全てが、この亀井南冥と繋がっているという奇妙な関係。
この金印発見劇の以前より、南冥が自身の専門領域で修猷館竹田定良に対する古文辞学の論争を仕掛けるための下工作だったのか。ライバル学者同士の功名争いが絡む金印にまつわる騒動は、印章研究家の第一人者藤原貞幹や文人の上田秋成と大田蜀山人、国学者の本居宣長をも巻き込んだ一大事件となる。
福岡・江戸間は三千里余り、この時代の距離と時間をして異常に早い情報伝達と自説を有利に運ばせる論文のリーク。江戸・大坂・京都在住の学者達にまたがる南冥の周到な根回しと画策はあったのだろうか。文献を基に次々と明るみに出る綿密な考証は、実に知的なミステリーとして舌を巻く展開となっているのである。
これはこれで面白い展開ですが、真相は別の所にあったかもしれないんですね。
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糸島市の細石(さざれいし)神社
志賀島から南方へ15キロ離れた糸島市に、金印が志賀島から発見された真相のヒントがありそうです。
なぜかというと。
なお、糸島市の細石神社には、「漢委奴國王」の金印が宝物として伝わっていたが江戸時代に外部に流出したとの伝承(口伝)がある。
ウィキペディアより
こんな伝承があったとか。
そうすると、やはり甚兵衛という人物がなんか怪しい感じがしますね。何らかの理由で細石神社の金印を手にしてしまった甚兵衛が、金印の処遇に困って巨石の下から発見したことにしたみたいな。
志賀島で巨石の場所すらも明確でないのも、「巨石自体が存在していなかった」ことが影響していそうですが。
細石神社
細石神社(さざれいしじんじゃ)は、福岡県糸島市にある神社。古くは「佐々禮石神社」と表記されていた。祭神は磐長姫と木花開耶姫の姉妹二柱。旧社格は村社。
この神社、弥生時代の伊都国の中心地に位置したと考えられているのですよね。
つまり奴国が受けた金印は、後に伊都国が所有するところとなり、そのまま細石神社が保管してきたという流れが考えられました。
細石神社は「佐々禮石」と書くわけなのですが、これは日本国国家の君が代で、
「君が代は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで」
とある、「さざれ石」と同じ名称ですね。
あるいはこの神社の場合、長らく保管した金印のことを、さざれ石と隠語で呼んでいたことは、あるかもしれない、そう考えることもできるのですよ。
佐々禮石
この漢字を使ってるのは意味深ですね。
佐・・・金印は西方の漢の洛陽から来た。西というのは方位に照らせば左
禮・・・これは祭礼のお供え物
禮
字源
会意形声。、「示」+音符「豊(「豐」の略体ではなく、元来からの文字)」。「豊」は「豆(たかつき)」に形よく供え物をならべた様。形よく整えられた祭礼を意味。
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金印と君が代と徳川家との関係
おそらくこの「志賀島金印発見事案」には、大きな権力が絡んでいると見て間違いないと思うのです。
その理由は意外なことに「君が代」から見つけることができるのですよ。
和歌としての君が代
テキストと作者
作者は文徳天皇の第一皇子惟喬親王に仕えていたとある木地師で、当時は位が低かったために詠み人知らずとして扱われるが、この詞が朝廷に認められたことから、詞の着想元となったさざれ石にちなみ「藤原朝臣石位左衛門」の名を賜ることとなる。[要出典]
歌詞の出典はしばしば『古今和歌集』(古今和歌集巻七賀歌巻頭歌、題しらず、読人しらず、国歌大観番号343番)とされるが古今集のテキストにおいては初句を「わが君は」とし、現在採用されているかたちとの完全な一致は見られない。
我が君は 千代にやちよに さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで
結果的に君が代の作詞家として、21世紀の今も存在感を見せていると言えるのが、9世紀に皇族に仕えた木地師の、藤原朝臣石位左衛門という人でした。
ここで金印が発見された年代に注目。
江戸時代 天明年間(天明4年2月23日(1784年4月12日)
天明(てんめい)は日本の元号の一つ。安永の後、寛政の前。1781年から1789年までの期間を指す。この時代の天皇は光格天皇。江戸幕府将軍は徳川家治、徳川家斉。
徳川家治(いえはる)・徳川家斉(いえなり)という征夷大将軍が日本のトップにいて、この当時の天皇は光格天皇でした。
金印が見つかった時代に日本を統治したこの人たちのことは、まあ何も知らなかったのですが、調べていると何だか変なことに気づいてしまいました。
昔の人は後の本名と幼い頃の名(幼名)が違っているのが普通でした。
徳川将軍の場合、
徳川家治の幼名・・・竹千代
徳川家斉の幼名・・・豊千代
徳川家の跡取りの幼名は、千代が付いている場合が多かったようです。初代江戸幕府将軍の家康から、秀忠、家光、家綱までみんな竹千代だったし。
あれ?なんか、さっき見ませんでしたかこの名前。
そうそう、糸島市の、細石(さざれいし)神社で、見かけました。
・さざれ石・・・千代にやちよにさざれ石の・・・千代
これに加えて、登場してきたあらゆる情報が、何故か偶然にリンクしていることがわかってきました。
・竹・・・さざ=笹=竹
・豊・・・佐々禮石の禮=示+豊
・治・・・発見者の1人=秀治・・・家治の治
・いと・・・甚兵衛の甚は「いと」と読み、細石神社があるのは元伊都国
・なり・・・徳川家斉の「斉(なり)」と関係者の喜平の「「平(なら)」
・甚平・・・甚兵衛とは甚平と同じだが、甚平は元は武家の衣服の陣羽織が起源
まとめるとこうなる。
これは偶然こうなったというか、・・・計算ずくな気がするのですが?
さらにもう一度、志賀島の金印発見情況を見てみる。
甚兵衛の供述
一巨石の下に三石周囲して匣(はこ)の形をした中に存したという。すなわち金印は単に土に埋もれていたのではなく、巨石の下に隠されていた。
ウィキペディアより
これを図案化するとこうなるのだが、
?
ドラえもんの絵描き歌みたいに描いてみたら、なんか徳川家の家紋になってしまった・・・。
三つ葉葵 - Wikipediaを使用。
志賀島からの金印発見には徳川将軍家が大きく関係しているんじゃないかって、そんな想像を膨ませてしまう、理由がわかりましたね。
徳川将軍家が、漢委奴國王の金印を表に出すために、甚兵衛らを使って一芝居打った、というわけなのかわかりませんが。
言葉の語呂合わせ、家紋風の発見状況などを利用して、真犯人は徳川家ですよ!と徳川将軍様は遊び心いっぱいに匂わせていたのですが、今まで誰も気づかなかったようです。
そもそも将軍が金印を日本じゅうに大公開する目的があったとしても、こんな回りくどい発見劇にした理由とは何だったのか。
将軍系の幼名と細石神社の名前など、いろいろ掛け合わせてあるということは、昔から徳川将軍家は金印のことを把握して、家宝として重視してきたことの表れかもしれません。
しかし情報が少ないので、これ以上のことは想像できません。
そういえば、
志賀島(しかのしま)
然り(しかり)
〔「しかあり」の転〕そうである。そのようである。そのとおりである。
金印が志賀島で見つかることもまた然り。運命であったということで、志賀島が金印発見劇の舞台に選ばれたんだろうか。
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