近年は「言葉に穢れを加える風潮」目立ってますね。
たぶん俺が生まれる前から、すでにあったんでは。呪詛ですねこれ。
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○いつも助かっております
古代から
こうした言葉に穢れを加えるという呪詛の行為は、現代日本人同様に、古代の中国人もやっていたことでした。
東夷・・・夷は背が低い、身分も低い未開人という意味
白狄・・・狄は追われて逃げる。逃げる犬
匈奴・・・奴~は奴隷の奴~
降奴・・・新朝の王莽が匈奴を降奴に改名した。降は下る意味
下句麗・・・新朝の王莽が高句麗を下句麗に改名した
濊・・・穢れの意味
沃沮・・・三国時代、夫祖から沃沮に改名された。沮は邪魔する意味
漢族は周辺異民族に下劣で下等な意味がこもった漢字を使ったんですが。呪詛的な用法ですね。まあ漢字自体が意味を封じ込めた呪詛ですが。この字を認識した時点で、瞬時に見下す習慣が付けられてしまうということなんですが。まあ今もやってる人いますね。漢字じゃなくてもjapとかchonとかいう蔑称も、呪詛の類ですよねこれ。俺もいろいろ呪詛かけられてるみたいです。
沃沮のことを考えてたら、穢れの話になってしまった。
扶余の別種夫祖(沃沮)
夫祖(沃沮)は日本が弥生時代後期の頃、ユーラシア大陸東部のあたりにあった国。
住人は扶余の別種だったとか。つまり言語も風習も扶余だったんですね。 沃沮は「肥沃を邪魔する」という意味になっていたり、なんか日本語の汚い意味の言葉が入っていたりしますが。
ちなみに扶余語と倭語が似てる件はこちら。
沃沮は元々は、「夫祖」といって、日本の異名である「扶桑」とそっくりだったんですよ。2つの理由があって、日本と扶余・沃沮は、無関係ではないですね。
これはともかく、神功皇后って応神天皇の母ですが、なにか出自が夫祖に関係しているのではないかと思うところがあり。その辺を考えてみました。
神功皇后と家系
神功皇后というのは、諱または諡号を「息長帯比売命(気長足姫尊)」といって、「おきながたらしひめのみこと」と言いました。
定説上では、「おきなが」という名に「息長、気長」という漢字を当てたということなんですが。
神功皇后といえば、男装をして新羅に2度出兵したり、百済から七支刀を貰ったりと存在感がやたらあり、奈良県奈良市の五社神古墳なんかでも知られた存在。ちなみに七支刀の「泰■四年」は「太和4年」というふうに当て字したもので、西暦369年説が有力。五社神古墳が4世紀末の年代なので良く合っているよう。
神功皇后の「おきなが」ってなんだろう?と考えていました。
息が長い、気が長い。たしかに神功皇后は通常に2倍も妊娠期間が長かったとか伝わっているので、それが関係しているのかと。息が長い。そういえば近年は肺活量を測ってないな。
そんなおきながですが、調べてみたところ、これは神功皇后だけに用いられているわけではないのでした。
息長を持つ人物
・神功皇后の弟「息長日子王」
というふうに3人いました。彼らを息長家とでも言いましょう。
定説によれば、神功皇后の父親の名「息長宿禰王(気長宿禰王)」は、開化天皇の玄孫だといいますね。
こういうこと。従来の定説では、欠史八代開化天皇は実在せず。または日本列島の奈良県に居たということになってますが。
息長は沃沮のことだった
神功皇后や息長宿禰王の息長とは、じつは「沃沮」のことなのではないかと。思い付いたのは何年前のことだったか。これはたぶん歴史上の事実だと思いますけど。
沃沮というのは日本語読みと大陸読みではちがうのですが。
古代日本 沃-沮 よくーそ(呉音・漢音)
上古中国 沃-沮 おくーちょ
これと「息長」を比較検討してみる。
上古中国 沃-沮 おくーちょ
古代日本 息-長 おきーちょう(訓+音)
そっくりな音が出て来るのでした。
つまり息長氏が夫祖(沃沮)の出身であることを、名前に込めている
ということになるんですよね。
そうすると以下のことが関係してくる。
電子書籍の拙著「日本の地名の~(下)」では、以下のように書いています。
・開化天皇の諡号の「大日日(大毘毘)」とは、「弁韓の首都・伴跛(ハヘ)」を表している。
これは別に適当なことを言ってるわけでない。
・開化天皇の妃の名前をみても、姥津媛(ははつひめ)となっていて、伴跛(ハヘ)を含んでいた。別名を見れば意祁都比売命。
姥津媛(伴跛つ姫)「つ」は接続詞(の)と同じ。
意祁都比売(おけつ姫→おくつ姫→おくちぇ姫→息長姫→沃沮姫)
ここにも沃沮系の人がいました。この姥津媛というかたは、和迩氏だそうで。つまり和迩氏も、朝鮮半島に拠点を持ってたことが分かってきますが。
つまり欠史八代とは大陸にいました。
関連記事はこちら
開化天皇以前の天皇の諡号は、それぞれ東夷の国々の国名に当てはまってたのでした。そうすると開化天皇の玄孫の息長宿禰王が、朝鮮半島の夫祖(沃沮)に居たとして、決しておかしくないことに。朝鮮半島は南北にわずか700キロほどで、日本で言うと九州から中部地方くらいの距離感だったので無理がない。
つまりこういうことになる。
・姥津媛(意祁都比売)、沃沮(意祁都)出身だが、弁韓の伴跛(姥)に来た人。
・息子(娘)の崇神天皇 御間城(任那)入彦五十瓊(委奴)殖天皇(任那から委奴へ)
・息子の彦坐王 坐というのは筑紫の座郡(朝倉郡)のことを言うが、朝鮮半島の倭人領域の地名を元にしているか
・玄孫の息長宿禰王 弁韓~沃沮にいた。沃沮から倭へ渡ってきた人。
息長宿禰王が沃沮出身であることで、開化天皇が朝鮮半島の倭の拠点にいたことが補強されるのでした。
こんなブログあり
韓国考古学による百済建国以前の韓半島古代史と倭/息長氏結語 ( 人類学と考古学 ) - 民族学伝承ひろいあげ辞典 - Yahoo!ブログ
このブログでは息長氏を朝鮮半島系の「はた族」(ハタ氏?)としている。沃沮とは言っていないが、こんかいの記事と整合していますね。
そして神功皇后が夫祖(沃沮)出身、これの証拠は、他にもあったんですよ。それはまたいずれ。
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