たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅勤務の自営業。

神武天皇の倭国では山椒を知っていて、卑弥呼の倭国は山椒を知らず・・・

このブログと拙著では、神武天皇は大陸に居た、烏孫の昆莫と同一人物だったと仮定して話を進めてるのですが。それを補足する材料ひとつ。

神武天皇卑弥呼は共に「実在した」という通説に基づくと、どちらも同じ日本列島の倭国にいて、まったく同じ文化を享受し連綿と受け継いでたんですけど。

しかしなんか、一筋縄ではいかないようなおかしなところがあり。なにがおかしいかは、日本の山椒のことを調べると分かってくるんですけど。

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 画像はwikipedia-山椒を参照、なんつって・・・。

 

山椒

サンショウ
サンショウ(山椒、学名:Zanthoxylum piperitum)はミカン科サンショウ属の落葉低木。別名はハジカミ。日本の北海道から屋久島までと、朝鮮半島の南部に分布する。若葉は食材として木の芽の名称がある。雄株と雌株があり、サンショウの実が成るのは雌株のみである。

サンショウ - Wikipedia

 

カホクザンショウ

カホクザンショウ(華北山椒、学名:Zanthoxylum bungeanum、英名:Sichuan pepper)は中国のミカン科サンショウ属の落葉低木。日本のサンショウとは同属異種に当たる。

一般には中国名である「花椒」で知られ、日本語読みで「かしょう」、または中国語読みで「ホアジャオ」(拼音:huājiāo)と呼ばれる。また、日本の山椒と区別して「四川山椒」、「中国山椒」などとも呼ばれる。

果皮は食用、薬用である。痺れるような辛さを持つ香辛料として、中国料理、特に四川料理では多用される。「花椒」のほか「蜀椒(しょくしょう)」、「椒紅(しょうこう)」などとも呼ばれ、漢方では健胃、鎮痛、駆虫作用があるとされる。

カホクザンショウ - Wikipedia

 

調べたらサンショウ属は東アジア、東南アジアに広く分布して利用されてるみたいでした。新疆ウイグル自治区でも用いられているので、中央アジアでも昔から広まっていたのかもしれない。

山椒についての日本最古の記録は、「古事記」「日本書紀」と「魏志」にみることができるんではないだろ~か。 

 

 日本書紀」の山椒

 長髄彦との二度目の戦いで、金鵄が舞い降りて長髄彦軍を幻惑し力を削いだので、天皇軍は勢いづいた、そのときの来目歌とよばれる歌があって、

「ミツミツシ、クメノコラガ、カキモトニ、ウヱシハジカミ、クチビヒク、ワレハワスレズ、ウチテシヤマム。

天皇の御稜威を負った来目部の軍勢のその家の垣の元に植えた山椒、口に入れると口中がヒリヒリするが、そのような敵の攻撃の手痛さは、今も忘れない。今度こそ必ず撃ち破ってやろう。」

日本書紀(上)全現代語訳 宇治谷孟 講談社学術文庫 p105)

 

古文で記している本もみてみよう。

「みつみつし 来目の子等が 垣本に 植ゑし山椒 口疼く 我は忘れず 撃ちてし止まむ」

日本書紀(一)岩波文庫 p232)

 

来目(久米)というのは軍事を司る氏族で、高御魂(高皇産霊尊)、神魂(神産霊尊)の子孫とか。記紀では元々は九州から神武天皇と一緒に来ていることになるのだろう。久留米という土地があるから関係するかも。神武東征のとき、高皇産霊尊は神武東征のときに東征の手助けをしている米(よね)。

 

古事記」の山椒

 古事記にもまったく同様の歌が載ってるんだが、ご存知だったろうか。

「みつみつし 久米の子らが 垣下に 植ゑし山椒 口ひひく 我は忘れじ 撃ちてしやまむ

(新版古事記 現代語訳付き 中村啓信訳注 角川文庫 p97)

 

というふうに神武天皇軍は、山椒を食べてるではないですか。「我は忘れず」と神武天皇が山椒を忘れないという決意を誇示しらしめたということは、民衆も忘れるわけがないはずなのに。そして「山椒を植えた」という記述によって、この頃に山椒の移植と栽培の農業が行われてたんじゃないか、そんな想像も湧いてくるわけですが。

ちなみに「疼く」は「びひく」というらしい。「うずく、ひひらく」でひりひり痛む意味とか。そういえば昨日も、自宅前で近所の女児に悪意のこもった絶叫をされて、心疼くようだったわ。

上の者が手下に命じて悪意を発動させる、ママが子供に叫ばせるっていう文化・ビジネスが実在するなら、いった誰が始めたんだろうか( 一_一)フウ。

というわけで次は魏志のほうを見てみる。

 

魏志倭人伝」の山椒

 薑・橘・椒・蘘荷あるも、以て滋味となすを知らず。

(中国正史日本伝(1)石原道博編訳 岩波文庫 p47)

椒の一字で山椒のこと。倭人は山椒を食べることを知らなかったらしい。

薑の一字で「はじかみ」と読むらしいんだけど、これはしょうがのことだとか。

橘(たちばな)とは日本のみかんの酸っぱい原種で、本来は日本には酸っぱい橘しかなかったのだが、大陸の甘いみかんを導入して、日本で甘い種類ができるようになったとか。

蘘荷とはみょうがのこと。

 

・・・おかしくないだろうか。

神武天皇のいる倭国では、山椒を知っていて食べていたのだが、卑弥呼のいる倭国では、山椒を食べることを知っている人すらいないという。

 

ココで問題になるのは、

神武天皇が実在したか

神武天皇卑弥呼はどっちが先でどっちが後か

 

ということなのだけど。第十代崇神天皇は、私見では卑弥呼とまったく同じ時期の人だった。記紀崇神天皇の記述と「魏志倭人伝」の出来事はまったく同じだったということで、個人的には崇神天皇卑弥呼のふたりは同一人物という見方なわけなのだけど。これを2012年に「崇神天皇に封印された卑弥呼と壱与」で書いたわけなのだ。

つまりこの考え方からすると、1代目の神武天皇のほうが、卑弥呼よりずっと前の天皇ということになってきますけど。

弥生時代ころの食文化というのは神武~崇神卑弥呼)の間のわずか数十年~数百年程度で廃れるとも、考えづらいではないか。いま若者の◯◯離れとか一々騒いでいるけど、それは流行がめまぐるしく入れ替わる今のこと。昔は一つの文化は何百何千年と継承したんではないか。

実際日本では縄文~弥生時代の米作り、餅、刺青、祭り、神道、禊、もがり、高床式や竪穴式住居の様式が、奈良時代以降までず~っと保たれていたわけなので、弥生時代ころの数十年~数百年程度で、食文化一つすら廃れる要素は無いとみられ。とくに農業や料理というのは、古代にあっても代々で受け継ぐものなんじゃないだろ~か。古代には膳夫(かしわで)、膳大伴部とかいう料理人の職業もあったことだし。

前回の記事でも見た通り、弥生時代に入ってきた食材は21世紀までもずっと食べられてることを見ても、忘れられることは無いとみられるわけなのだけど。 

日本語の大陸起源 事物と言葉の歴史的経緯から探ってみる

・・・

だから神武天皇が倭にいたと仮定したばあい、神武天皇のときは山椒食文化があったのに、せいぜい数百年後の卑弥呼の頃には忘れ去られていたなんてことは無かったと思うわけなんだよね。

つまり「山椒食文化のあった神武天皇の居た場所と、山椒食文化の無かった卑弥呼倭国は、別物だ」って考えたらしっくり整合するではないですか。

そういったことで、神武天皇中央アジアに居たという仮説につながってくるわけなのです。

 

 
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