足の痛みは無くなったと思ったら、腰が痛い。
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以前書いた記事。
倭人=俀人(tai人)=シャモ人
東南アジアのタイ人=シャム人
中略
雲南省には紀元前1世紀から滇王国があった。滇王は前漢から「蛇の金印」を授与された。日本の金印「漢委奴国王印」が蛇の金印だったので、同じ民族と認識されてたんすかね、
これについて少しわかったことがあるので、まとめ。
○いつも助かっております
倭=俀(たい)国
かつて日本は「魏志」「後漢書」によれば「倭(わ)」だった。のでしたが、「隋書」では別名はなぜか「俀(たい)」と呼ばれました。
倭 わ
俀 たい
字は似てますが、発音は全然違ってます。
たいと言えば東南アジアの「タイ」。別名で「シャム」とか言われましたが。
Siam と言う語は古くポーナガルのチャム語碑文(1050年)、バガンのビルマ語碑文(1120年)、アンコールワットの刻文(12世紀頃)などに見える Syām という語に原型を見ることができる。
そこで気づくのが、アイヌは倭人のことを「シャモ」と呼んだこと。
類義語
アイヌによる「和人」以外の日本人を指す名称として「シサム」「シャモ」があり、「シサム」は「隣人」が語源であると一般的には考えられている。
シサムは「シシャモ」で、いまはお魚の名前ですが。つまり、
俀人=シャモ
タイ=シャム
あらま~同じだ、こりゃ不思議。どーなんてんだ、たま下駄ー。
そういえば、
「後漢書」で倭の都だという邪馬台の「台」、
「隋書」で俀の都だという邪靡堆(やまたい)の「堆(たい)」
これはつまり俀、台、堆
というのは、最初から「たい」の音を意図してる、ということについては、古田武彦氏の述べたことだったそうですが。
ということで、倭の「俀、台、堆のたい」と同じ、タイ人、タイ族を調べれば、倭人の正体が見えてくるのではないかと。
タイ族の起源
それは、ラオスの歴史を調べることでもわかる。なぜかというと東南アジアのタイ、ラオス、ミャンマー、中国の雲南省のあたりにタイ族は分布してるから。
オレンジ色がタイ族のタイ語エリア。その他は近縁のカダイ語エリア。
でラオスのタイ族であるラーオ族の歴史を見ると、こんなことが。
ラーオ族前史
ラーオ族による統一国家の出現は1353年のラーンサーン王国であるが、それ以前から民族としての活動は活発だった。ラーオ族の発祥はアルタイ山脈の麓あたりとされており、年代を経るにつれて南下をしていることが分かっている。紀元前5000年頃にはすでに黄河や揚子江の中間あたりまで南下を進めており、ゴビ砂漠に興った漢民族に押し出される形で現在の四川省近辺に移住し、そこに都市国家(ムアン)をつくった。
紀元前1000年頃には西安の北西にムアン・ルン、現在の重慶の位置にムアン・パー、長沙近辺にムアン・ギャオという都市国家を作っており、周の皇帝がムアン・パーに使節を派遣したことなどが記されている。その後紀元前853年にはタタール族が北方より侵出を始め、ラーオ族はムアン・ルンを破棄しムアン・パーへ移住している。その後周によりムアン・パーも攻撃を受け、ムアン・ギャオへと移った。
紀元前215年には秦によりムアン・ギャオも攻撃を受けたため、ラーオ族はさらに南下し、現在の雲南省・保山近辺にムアン・ペーガイという都市国家を新しく形成した。紀元前110年ごろ、前漢の武帝は仏教の経典調査団をインドへ派遣しようとしていたが、ムアン・ペーガイの初代国王クン・メンはこの使節団のムアン・ペーガイ通過を許可しなかったため、ムアン・ペーガイと前漢との対立が勃発した。この対立は約7年間続いたが、紀元前87年にムアン・ペーガイは滅亡する。9年にクン・メンの子孫にあたるクン・ワンによりムアン・ペーガイ独立が宣言されたが、これも長くは持たず、50年に後漢により再び滅ぼされた。
南詔王国の建国
その後数世紀の間、ラーオ族に関する資料が存在しておらず、どのような歴史を辿ったのかは不明であるが、7世紀頃に6つのムアンが雲南省の大理盆地に建国されている。これらのムアンを総じて六詔(中国語版)あるいは六詔国と呼称する。六詔のうち最大のムアンであり、イ族(中国語では「彝族」)の先祖であるといわれる鳥蕃族が支配者層とみられるムアン・スイは唐に対し友好関係を築くべく建国当初から貢物を贈っていたとされている。
ムアン・スイは強大な唐の援助を得て729年、皮羅閣王の時代に六詔を統一し、南詔王国を建国した。皮羅閣王は死後この功績により唐より「雲南王」の王位を贈られている。しかし、南詔王国の力が強大になるにつれ、唐との友好関係は次第に崩れ、唐の玄宗は2回にわたり南詔王国へ交戦を仕掛けたが、どちらも南詔王国が勝利した。南詔王国の勢力は増し、832年にはピューの城郭都市を、858年にはトンキンを、863年にはアンナンをそれぞれ攻略し、領土を広げた。しかし902年に漢人の権臣・鄭買嗣が起こしたクーデターで南詔王国は滅亡した。
南詔王国の滅亡を機にラーオ族は大移動をはじめ、インドシナ半島、ビルマ、アッサムなどの各地に散り、ムアンを形成しはじめた。
長くてわからないと思うので、タイ族の歴史的な本拠地をまとめると、
紀元前5,000年以前 アルタイ山脈(ロシア、中国、カザフスタン、モンゴル国境)
紀元前1,000年頃 西安(陝西省)、重慶(四川省)、 長沙(湖南省)
紀元前215年 雲南省
7世紀 雲南省に六詔国
10世紀初頭 東南アジア
google map
こんな感じでした。縄文時代だった頃からということでした。元々タイ族は中央アジア~中国にいたんですね。滇王国の滇とはタイの音写で、「タイ王国」なんすかね。
そういえば、よく世界各地の領土問題で「元は住んでいたから我々の土地だ」という理屈が出ますが、タイ族にもあてはめてみたらどうなっちゃいますかね。
大
で、アルタイ山脈の漢字表記が「阿勒泰」というので「泰」とは「タイ族」が元になってるのかと。
ちなみに先ほどのリンクによると、「タイ」の意味は「大」だそうで、「タイ族=大族」という説があるとか。これはあやしい。
つまり倭国=俀国で、「たい国」なのは、「大国」なのか?
ということは、古代に西日本を治めたという「大国主」は、「タイ国主」だったのかと・・・?
というわけで、こうして色々と倭とタイ族の関係が、つながってくるということは、倭人のルーツというのを再考するきっかけになりますけどね。つまり、
中国の中央の平原にいたタイ族は、紀元前1,000年より後(縄文時代末~弥生時代)に、一方は東へ向かって「邪馬たい国・俀(たい)=シャモ」なのであり、
もう一方は南へ向かったのが「タイ族=シャム」なのかもしれないと。
そうすると縄文人や弥生人はかなり古い段階から倭の呼称のほかに「タイ」を持ってたのか?という疑問が出てきますけど。
やっぱ出雲の「大国主(たいこくぬし)」?
朝鮮半島の北朝鮮南西部にあった、古代の地名「帯方郡」です。ここまで読み解くと、正体は見えてきますね。「帯方郡=タイ方郡=俀方郡=倭方郡」かもと。そもそも「帯」は「蛇」の意味がありますので、蛇の金印の倭との関連が伺えますが。
「山海経」を見てもわかりますが、倭人は元々黄海の沿岸に居住してたのですよね。韓国の西部を見ると、帯方郡の近くに泰安半島(てあんはんとう)があって、阿勒泰の「泰」すね。
それで「魏志倭人伝」で、倭人が帯方郡へ必死こいて往来してた理由もわかりますが。倭人の同族の居住地が帯方郡だったのであると。そこを通して、ユーラシアの内陸部の情勢を仕入れてたんですかね。
こうして見ると、邪馬台、俀国の「たい」から、東南アジアのタイ、縄文人、帯方郡などの「タイ」との、見えなかった繋がりが見えてくるんでは。おわり。
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