たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅勤務の自営業。

電子書籍「日本の地名の真の由来と神武東征のカラクリ仕掛け(下)第7章を試し読み1

ちょっと出来が悪い電子書籍「日本の地名の真の由来と神武東征のカラクリ仕掛け(下)第7章1を試し読み、その1。

電子書籍版は、いずれ内容を訂正予定)

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1 神代と神武東征における金属器の記録

紀元前15世紀以前に繁栄した、トルコのヒッタイト人の製鉄で知られるように、人類は金属を加工することにより、文明を加速度的に発展させてきました。鉄やアルミニウムは、住宅や日々の生活の中でも必需品となり、人間はほとんど意識せずに、毎日金属の製品を使っています。金属は拳銃、刃物、犯罪に使う装置など、他者を傷つける道具にも用いられるから、決して好ましい用途ばかりとは言えませんけれど。

古代の倭でも同様で、金属器の存在価値は時代を経るごとに増し、様々な形態の金属器が作られました。神武東征の場面では多くの戦闘場面が登場し、金属の武器が用いられた形跡を読み取れます。神武天皇を実在として年代を特定するとき、金属器の記録が、特定するヒントになることに気づくのです。金属についての知識は、素人に毛が生えた、付け焼き刃程度のものですが、神代の金属についても合わせて探ります。

 

国史書の倭人伝の金属器を探る

 

前漢書』の地理志は、倭人の武器について、「兵則矛盾刀木弓弩竹矢或骨為鏃(兵はすなわち矛、盾、刀、木の弓弩(きゅうど)、竹の矢を用い、骨を鏃(やじり)となす)」とあって、「骨鏃」を用いたとあり、ここからでは、鉄や銅の鏃については不明な様子。

しかし『魏志倭人伝』では、「兵には矛、盾、木弓を用う。木弓は下を短く上を長くし、竹煎はあるいは鉄鏃、あるいは骨鏃なり」とあり、卑弥呼の居所には「兵を持して守衛す」とあります。弥生時代の遺跡からは金属製の矛が出土するので、金属製の武器を持った兵がいたことが明らかです。景初二年の12月の箇所には、金印紫綬、銀印紙樹、金八枚、銅鏡百枚、鉛丹。正始元年の箇所には、刀、鏡。というように、魏から贈与された金属製品を確認できます。

また、『後漢書』の建武中元二年(57年)、光武帝が金印を授与した記録があり、これは志賀島の「漢委奴國王金印」のことです。

 

神武東征の中の金属

 

次に『日本書紀』の神武東征の記録中から、金属の使用があったかどうか探ります。

 

A・赤銅八十梟帥(あかがねのやそたける)

赤銅八十梟師とは、銅製の鎧兜をまとった姿を想起させる表現です。発掘調査によれば、日本列島では弥生時代の早い段階で銅製品が使われました。

B・細戈千足國(くはしほこのちだるくに)

東征を終え橿原宮に居を構えた神武天皇が、その後に国内を巡幸した最中、掖上(わきがみ)の嗛間(ほほま)の丘に登った時、昔の伊奘諾尊(いざなぎのみこと)の言葉を引用して「日本は浦安(心やすらぐ)国、細戈の千足(ちだ)る国、磯輪上(しわがみ)の秀真(ほつま)国」。「細戈の千足る国」とは、一千を数えるほど多くの細く美しい武器が溢れ、軍事的に充足していた様子を表します。神武東征当時の大和国奈良県)は武器で溢れる土地だったことになり、これが事実かどうか確かめる必要があります。

C・媛蹈韛五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)

「蹈鞴」が「たたら製鉄」のことを表すとの指摘は、昔からあります。たたら製鉄が始まったのは弥生時代末の3世紀以降と言われており、そうすると神武天皇・皇后の時代を日本列島に求めれば、3世紀以降となるのでしょうか。また、「鈴」は銅鐸を思い起こさせます。以下の饒速日命の考察で触れています。

D・鐃速日命(にぎはやひのみこと)

『世界大百科事典(コトバンク)』によれば、饒(にぎ)=青銅製打楽器(鉦(かね)・銅鑼(どら)の類、鈴(れい)類,銅鈸(どうばつ)類)のこと。饒速日命は銅鐸の名を冠していたのです。饒速日命が銅鐸圏の中心地近畿にいたことを、饒の一字で表したと見られます。

E・倭鍛部(やまとのかぬち)天津真浦(あまつまら)・真麛(まかご)の鏃(やさき)

神武東征の皇子である綏靖(すいぜい)天皇の条に、「倭鍛部天津真浦をして真麛のまがね(鉄)を造らしめ」とあり、鍛部(かぬち)とは鍜冶のこと。『古事記』の天岩屋の場面で「天(あめ)の金山(かねやま)のまがね(鉄)を取りて、鍛人天津麻羅(かぬちあまつまら)を求(ま)ぎて」とあります。つまり綏靖紀に登場する「天津真浦=天津麻羅」は、鉄鉱石か砂鉄を取って製鉄し鍜冶を行う人であり、「綏靖天皇の御宇に鉄の溶炉と鍜冶場があった」と読み解けます。

 

神代(かみよ)の金属

 

日本神話は、まず神代があって、その後に神武天皇の時代に移ります。

「神代は縄文時代だ」という見方があります。縄文時代と言うと、紀元前700年より以前のこと。『日本書紀』は特に、鉄・銅で武器・道具を作った記述が冒頭から数多く見られます。縄文時代には製鉄技術は無かったので、神代とは縄文時代では無く、弥生時代であると言えます。

では神武天皇の時代を特定するためにも、記紀と『古語拾遺』における神代の金属器の明確な登場箇所を抽出します。

 

F・神世七代の金属

日本書紀』で最初に登場する金属は、冒頭の神の誕生の場面で神世七代と呼ばれる原初の神に含まれる「天鏡尊(あまのかがみのみこと)」であろうと考えます。古代の鏡とは銅鏡のことに他ならないからです。

G・国生み・神生みの金属

伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冊尊(いざなみのみこと)が天之瓊矛(あめのぬぼこ)で渾沌の海をかき回し、オノゴロ島を作ったとの記述があり、天之瓊矛は、金属製をイメージしたものかもしれません。『古事記』では天沼矛。

イザナギが白銅(しろますみ)鏡(のかがみ)を手に持つと、天照大神(あまてらすおおみかみ)と月弓尊(つきゆみのみこと)が生まれたとあります。白銅とは銅と白鉛の合金のこと(『日本書紀岩波文庫、補注1-四二)。

イザナミは火の神・軻遇突智(かぐつち)を産むとき、苦しさから嘔吐し、それが金山彦(かなやまひこ)という神となった。金山彦の金(かね)は鉱物のこと。『古事記』では金山毗古神、金山毗売神。

イザナミ軻遇突智の灼熱が原因で亡くなると、イザナギは嘆き悲しみ、死因となった自らの子・軻遇突智を斬り殺しました。斬った時に用いた剣が十握剣(とつかのつるぎ)(十拳剣)で、これは『日本書紀』の海幸山幸の物語に、金属の剣として登場します(Iに解説あり)。十握剣の刃から滴る血から多くの神が生まれました。

H・天の岩窟(岩戸開き)の金属

日本書紀』によれば、素盞鳴尊(すさのおのみこと)による乱暴狼藉に耐えかねた天照大神が岩窟(いわや)(岩屋・岩戸・石窟に同じ)に閉じこもった時、世界は闇に包まれたので、天照大神を外におびき出して光を取り戻すため、幾つかの祭祀具を作ったとあります。

その一書(第一)の記録に、「天の香具山の金(かね)(鉄)を取りて日(ひ)矛(ほこ)を作らしむ」とあり、一書(第三)には「鏡作の遠祖天抜戸(あまのぬかと)が児石凝戸辺(こいしこりとべ)が作(す)れる八咫鏡(やたのかがみ)を懸(とりか)け」とあります。

古事記』の天岩屋の場面を見ると「天の金山(かなやま)のまがね(鉄)を取りて、鍛人天津麻羅(かぬちあまつまら)を求(ま)ぎて、伊斯許理度売命(いしこりどめのみこと)に科(おほ)せ、鏡を作らしめ」とあり。また、『古語拾遺』の天石窟(あめのいはや)の場面を見ると「石凝姥神(いしこりどめのかみ)をして天香山の銅(あかがね)を取りて、日の像(かた)の鏡を鋳(い)しむ」「天目一箇神(あめのまひとつのかみ)をして雑(くさぐさ)の刀(たち)・斧(をの)及(また)鉄(くろがね)の鐸(さなき)(古語に佐那伎といふ)を作らしむ」とあります。

I・海幸山幸の金属

古事記』に海佐知(うみさち)(火照命(ほでりのみこと))と山佐知(火遠理命(ほおりのみこと)、日子穂々出見命(ひこほほでみのみこと))の物語があります。弟の山佐知は兄の釣り針を無くしてしまったので、「十拳(とつか)の剱(つるぎ)を破り、五百(いほ)の釣(ち)を作り(五百個の釣針を作り)」兄に償ったものの、許されませんでした。十拳剱は『日本書紀』で十握剣とあり、これは火の神・軻遇突智(かぐつち)を斬り殺した剣。「十拳剱を破り五百の釣を作り」とは、剱を破壊し、溶炉で溶かして多くの釣り針を作ったことだから、十拳剱とは溶かして再生可能な金属だったと言えます。

 

なお、神代には、以上に紹介した他にも、武器・道具が頻繁に登場していますが、その多くは材質(鉄、銅、石、木、竹など)がはっきりしないので上記に含めていません。

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天香具山(あめのかぐやま)から鉄がとれるのは本当?

 

以上の通り、『古事記』『日本書紀』『古語拾遺』の三書は共に、神代に、鉄・銅を用いて鏡と矛を鋳造したことをはっきり表していました。

では記紀における高天原の天香具山(あめのかぐやま)が、奈良県の天香具山そのものとした場合、奈良の天香具山から鉄や銅が産出するかというと、「鉄・銅の産出は無い」という話しか聞かれません。『原色鉱石図鑑』(木下亀城)にも、天香具山の付近の鉄鉱山・銅鉱山は無いようであるし、古代の鉄鉱床・銅鉱床をネット検索で調べてみても、やはり天香具山に鉄・銅を産出したとの情報はありませんでした。

拙著の上巻の「地名移植」の観点から、天香具山の前身と見られるのが福岡県朝倉市の「香山」ですが、上記同様の検索を行っても、朝倉市の香山で鉄を取った記録は見つかりませんでした。

このことから、神代の天香具山から鉄が採れたとの記録については、以下の見解が必要になるようです。「奈良の天香具山・福岡の香山では無い、別の場所の天香具山と称された鉱山から、鉄を採取した出来事を、奈良の天香具山の出来事として投影している」。

 

神代に登場する鉄の鐸(さなき)と鋺(かなまり)と広矛について

 

神代の天岩屋(あめのいわや)(天石窟)の記録にある、鉄の鐸(さなき)の記録は、神代の正体を知る上で重要です。鉄鐸については、『広報あおもり』2001年7月1日号で詳しく紹介されていたので、その内容を要約することにします。

東北地方では「錫杖(しゃくじょう)状鉄製品」という、棒の先端に輪っかのある15センチほどの特殊な鉄棒が出土し、それに鉄鐸を幾つか下げる形状で、祭祀の時に錫杖(しゃくじょう)状鉄製品と鉄鐸をぶつけて音を発生させたということです。「鉄鐸は西日本では古墳時代後期から平安時代初頭の墳墓や宗教遺跡で出土する」とあり、やはり鉄鐸の登場は古墳時代以降ということになり、神代に古墳時代が含まれることが確定します。さらに鉄鐸については以下の様な、大陸との興味深い接点があると言います。

「鉄鐸が使用されたのは日本だけでなく、朝鮮半島から中国東北地方、ロシア沿海地方で宗教儀式に用いる道具として広く使われていた。北東北の鉄鐸文化を理解するには、大陸の様子も視野に入れる必要があるだろう。中国東北地方やロシア沿海地方サハリンでは、シャーマン(霊魂との交霊、予言などを行う巫女、導士)が鉄鐸の多数ついた服を着用し、踊りながら音を発していた。ロシア沿海地方では、日本海に面したモノストリカ3遺跡(7~8世紀)から、衣服につけられていたと思われる小型の鉄鐸が多数出土している。また、アムール河流域の10世紀ころの墳墓からは、環状の鉄製品に鉄鐸や鉄棒、鉄小板を下げた資料が出土している。このほか、鉄鐸などは伴っていないが、先端が環状になって錫杖状鉄製品と類似している資料が中国吉林省老河深(ラオハーシェン)遺跡(7世紀)やロシア沿海地方ペトロフスキー墳墓(10世紀前後)から出土している」

この記事では、鉄鐸と錫杖状鉄製品の祭祀セットは、女真族蝦夷の交流を裏付ける資料であると結んでいます。

 

神代が古墳時代を含むことを示す、もう一つの重要な指標は、「鋺(かなまり)」の記録。鋺とは水や食べ物を入れる銅製のおわんのことで、銅鋺とも言います。神代の彦火火出見尊(びこほほでみのみこと)が海神の宮に行った時に玉鋺が登場します。玉のように丸い鋺のことです。

普段はあまり意識しないのですが、本来おわんとは、金属製なら鋺、石製なら碗、木製なら椀、というように書き分けられます。

世界大百科事典によれば、「銅鋺」とは、「銅製の椀形容器をいう。鋳造ののち、ろくろで削って整形する。器形としては、蓋がつき承盤(しょうばん)(托)にのせる高台付鋺形、盒(ごう)形、杯(さかずき)形など多岐にわたる。南北朝時代から隋・唐時代の中国では,銅製のほか金製や銀製のものがあり、同時代の朝鮮や日本の遺跡から類似品が出土する。韓国の百済武寧(ぶねい)王陵からは銅製承盤と蓋付きの銀鋺と組み合わさったものが出土し、同時に銅製の鋺も発見されている。日本の古墳時代後期墓から発見される銅鋺の祖形とみられる」

やはり銅鋺についても、古墳時代後期以降の遺跡から出るということです。

 

最後に神代に登場する「広矛」について。銅矛は弥生時代に大陸の影響を受けて作られ始め、時代を経るごとに、形が細形から広型へ変遷しています。広形銅矛が作られたのは卑弥呼の時代になってから、とのこと。

神代の記録中には、大国主の出雲の国譲りの時、広矛の文字が出てきます。つまり大国主の登場する時代は、卑弥呼の時代に重ねられた設定になるようです。

 

以上の3つの要素から、記紀の神代~神武天皇条とは、弥生時代から古墳時代を包括していると分かるのです。言い換えれば神代とは、神武天皇以前と神武天皇以降をひっくるめた範囲を現しており、時間の流れを全く無視していることが判明します。

 

2につづく

 

続き

 電子書籍「日本の地名の真の由来と神武東征のカラクリ仕掛け(下)第7章を試し読み2と3 

 

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