たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅お仕事中。

蜂子皇子から知る、蘇我氏=サカ人仮説(1)

大和王権の中枢の大和民族には、中央アジアから来た人々が含まれた・・・。

と言っても、普通は中央アジアって遠すぎだから、そんなに影響のある人が来たなら証拠見せろと、わかめられます・・・わめかれます。

栗本慎一郎氏の著書を読んだことがあれば、取っ付き易いです。

中央アジアセミレチア(烏孫)から草原のシルクロードを通って倭へ入ってきた天皇家中央アジアのサカが渡来し蘇我氏となった。クルガンと古墳の相似。彼らが作った中央アジア的な飛鳥の遺跡・・・中央アジアと日本で共通する聖方位の宮殿・・・。

天皇家日本民族(の一部)は、中央アジアから来たのではないかと思わせる文物が残っていますが、普通に見ただけではちょっと分かりにくいのです。しかしそうした示唆があらゆるところに散在しています。その一つを明らかとします。

 

○いつも助かっております

 

 

 

蜂子皇子

 

最近になり、蜂子皇子(波知乃子王)のことを知りました。「はちのこのみこ」です。

このかた、聖徳太子と同じころの、たいへんな事績を誇る偉人です。

東北地方に農業や産業などの文明をもたらし、山形県修験道出羽三山(月山、羽黒山湯殿山)を開いた人です。推古天皇元年(593年)のことでした。

蜂子皇子は八咫烏に導かれて鶴岡市に達し、羽黒山で「伊氏波神(いではの神)」を見出し、羽黒山に社を建てました。そして月山、湯殿山を開山したとか。

するともしかすると、出羽(いでは、でわ)という地名も、蜂子皇子に由来するのかもですが。後に能除太子とよばれて崇敬されました。

 

蜂子皇子、この方、第三十二代・崇峻天皇の皇子です。

母は小手子。コテコと読みます(ポテコじゃない)。小手子は大伴糠手子の娘だとか。

崇峻天皇は、欽明天皇蘇我小姉君の皇子です。蘇我小姉君は、蘇我の稲目の娘。蘇我氏というのは武内宿禰を始祖とすると、公には言ってた氏族です。

と言っても、何言ってるか分からないと思うので、簡単な系図をつくるとこんな感じになります。

      蘇我稲目
       │
欽明天皇蘇我小姉君
    │
  崇峻天皇━小手子
      │
    蜂子皇子(562~641年)

 

ということです。ま、まだ分かりにくいですが、蜂子皇子はちょうど厩戸皇子聖徳太子)の頃だと言えば、あぁそうなの~へ~・・・と言う感覚にはなりそうな気がします。

崇峻天皇蘇我馬子に暗殺されてしまいましたが、崇峻天皇蘇我氏が半分入った血筋だったんですね。父の暗殺を受けて、蜂子皇子は山形県へと避難しました。これにより出羽三山が生まれたのは怪我の功名というのか。

用明天皇推古天皇も、欽明天皇蘇我堅塩媛の子で、蘇我氏50%でした。

この蘇我氏の祖は武内宿禰だというし、武内宿禰孝元天皇の三世孫だとか。つまり定説上で、蘇我氏は日本人なのだというのは説得力がある話です。

 

しかし栗本氏や『シルクロード渡来人が建国した日本』の久慈氏などは、蘇我氏中央アジアからやってきたサカ族だと言います。その根拠が足りないと言われますが。

蘇我氏は仏教を早い段階で取り入れました。仏教は古代インドで誕生し、一説に釈迦は古くからサカの出身とされました。

サカは中央アジアで仏教にも接近したので、蘇我氏中央アジアのサカ出身であるとすれば、蘇我氏が最初に仏教を取り入れたのも頷けます。

 

     

蜂子皇子の肌は色黒だった 

 

従来の「蘇我氏は日本人説」を覆す情報が、山形県羽黒山に残っていました。

蜂子皇子の御尊影は、江戸時代以前から羽黒山五重塔(国宝)で保存されてきました。ずっと非公開とされてきた蜂子皇子の御尊影が、近年になり公開されたのです。

 

羽黒山 蜂子神社御開扉

http://www.pref.yamagata.jp/ou/somu/020020/03/mailmag/series/season/haguro.html

いまは蜂子神社に安置される御尊影は、元は羽黒山五重塔にあったそうな。 

羽黒山五重塔は、平安時代中期に創建され、現存塔は現存する塔は応安5年(1372年)の再建だとか。

 羽黒山では蜂子皇子の容貌風采といったものが伝えられていました。肌の色は浅黒く、鼻は天狗のように高く、口は大きくてよく見知った日本的な見た目ではなかったそうな。

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これはグーグルの画像検索のサムネイル画像から。ここに写ってるのは全部蜂子皇子の肖像。左上と中央が蜂子神社の御尊影。

肖像画のほか、この地域には蜂子皇子の姿の彫像が二体あるという。いずれも黒い。

山形)出羽三山開祖・蜂子皇子像を初の一般公開:朝日新聞デジタル

2014年3月29日

 

この記事によると出羽三山神社の黒い木彫りの蜂子皇子像は、神社の歴史上で「秘中の秘」とされてきました。蜂子皇子そっくりに作られているのだろうか。なんでただの木彫り像がそんなに秘密なのかと。それはやっぱり皇族が黒い肌で外国人風だとまずいからなのか。おそらく御尊影は、木像の顔を元にして描かれた模様。

注目すべきは蜂子皇子と共に、二人の従者が描かれているところ。

この二人、明らかにコーカソイドぽい。中央アジアは古代より人種のるつぼで、アーリア系や地中海系の白人種がいて然るべきべきでした。この点は後に詳しい解説が入ります。

 

 

蜂子皇子が黒かったとすれば遺伝か日焼けか

 

日本人は夏には日焼けするので、日焼けした姿かというと、否定も難しいですが、両隣の人は日焼けしてませんね。

しかも蜂子皇子木像の色は、日焼けの色というよりはインドの黒色人種=オーストラロイドのような色合いです。

つまり遺伝的なものだとすると、以下の様な疑問が出てきます。

崇峻天皇も肌が黒く鼻が高かった?

崇峻天皇の母、蘇我小姉君の肌が黒く鼻が高かった?

・すると蘇我氏は肌が黒く鼻が高かったということになる

松崎しげるとどっちが黒かったのか。

 

こういった疑問が湧いてきますけど。お坊さんでも神主さんでも、こんがりと日焼けしてる人は、あんまり見たことないですね。

蜂子皇子は日焼けして肌がこんがり焼けていたというより、地黒だったのではと思われます。

 

 

蜂子皇子の本拠地は何故「羽黒山」なのか

 

そもそも蜂子皇子が本拠を構えた「羽黒山」という名前もなにか怪しい名前です。

羽黒山は、神社の創建者の蜂子皇子の肌が黒かったから、「肌黒」が転じて羽黒山なのではと想像してみたり。

これを知るには、父の崇峻天皇について調べると良かったのでした。

 

 

崇峻天皇諡号「泊瀬部」は「黒」の意味か

 

父である崇峻天皇は、蘇我氏50%です。すると必然的に、蜂子皇子と同じ身体的特徴(褐色の肌+高い鼻)を備えていたかもしれません。

崇峻天皇諡号を泊瀬部(はっせべ)と言いました。

気になったので、BABEL 〜世界の言葉〜で、「黒」を調べてみました。

「黒」を調べてみたら、実に興味深いことに、広東語(かんとんご)で「黒」のことを「ハッセ」というのですね。

つまり崇峻天皇(泊瀬部天皇)は広東語でいうと「黒い天皇」だったと。中古(隋・唐)の中国では黒を「hek」と発音し、現代中国語では「hei」らしいです(学研漢和大辞典より)。

ただ、雄略天皇(大泊瀬幼武/おおはつせわかたけ)の場合には、黒の意味があったか分かりませんけど。

広東語の使われる辺りは、あれです。『魏志倭人伝』で「倭人の風俗は儋耳(広東省)・朱崖(広東省)と同じである」とあるところで分かるように、3世紀頃には広東語の文化圏のあたりと倭人は、似ていたと認識されていたことが明らかなのです。

崇峻天皇の頃というのは、百済から多くの僧侶らの移民が入ってきた頃でした。といってもこの百済僧ら、実際には中央アジアからやってきた中央アジア人種が含まれたんではないかと想像します。

崇峻天皇の頃にやってきた百済僧の名は、下記のようにあります。

 

「日本史の宝石箱」オリエントの都アスカへの道 列島古代史学「日本史の宝石箱」オリエントの都アスカへの道

波斯(ペルシャ)人とヤマトのつながり
その中の寺院技術者の名前をみると、ダラミダ・太良未太(寺工)、モンケコシ・文○古子(お堂)、ハクマイシン・白昧淳(露盤博士の将徳)、・マナモンヌ・麻奈文奴(屋根葺き)、ハクカ・白加(丸瓦)、ヤコ・陽古(彫刻) その他
これらはペルシャ語で、細分化したペルシャ語職種名・製品名らしい。
参照久慈力氏解説『蘇我氏シルクロードからやってきた。』(48-65)

 

太良未太(ダラミダ)っていう名前、ありますね。阿弥陀如来の名前を持ってるのです(だらあみだ)。

阿弥陀如来というのは「西方浄土においでになる慈悲の如来」なんですよね。西方浄土って日本からすると仏教発祥の地インド。

蘇我氏がもし大陸民族であれば、大陸文化と言語の情報を積極的に取り入れ、それを崇峻天皇が受け入れていて、おかしくなかったです。

実際応神天皇の頃からは、日本文化はかなり大陸的になっていたわけで、それは正倉院の国宝の数々を見れば、全部大陸系遺物というあたりでも理解できるところです。

しかし、蜂子皇子がほんとうに崇峻天皇の子であるかは、定かでありません。蜂子皇子の両隣の人物も含め、あまりにもその風貌が日本人的ではないからです。

 

 

蜂子皇子の謎の解明

 

そして蜂子皇子の名前も、黒が貴重になっていました。

蜂子は「ハツシ」で、これも「ハッセ=黒」。

『角川新字源』「方位・五行・四季色の関係」によると、干支の「子(ね)」は色に対応させると「黒」なのです。

蜂子皇子はやはり蜂子神社の肖像画のように、肌が黒かったから、名前に黒をねじ込んでいるとしか思えないですね。

 

蜂は「はち 」で、同音異義語に「鉢」があります。鉢というのは、古代インドの梵語サンスクリット語)で、patyaが語源だとか。patyaはインドの石製・鉄製の食器のことです。蜂子皇子はインドに関係してくるのでした。

 

こうなってくると、以下の様な推理が成り立ちます。

(a)蜂子皇子の肌は黒かった。

(b)だから肖像画も肌が黒く描かれている

(c)蜂子皇子が開山した羽黒山も「肌黒」で蜂子皇子の肌の色を現している

(d)蜂子皇子の父親崇峻天皇も肌が黒かった

広東語で黒は「はっせ」で、崇峻天皇諡号は泊瀬部(はっせべ)だった

(e)崇峻天皇蘇我氏の血をひく。つまり蘇我氏は肌が黒く鼻が高い人が含まれた

 

 

蜂子皇子と蘇我氏の正体はインド系で褐色肌のバクトリアのサカ人か

 

さらに以下の様な推測もしてみます

(f)蘇我氏はサカだと以前から指摘あった

(g)蘇我氏がもし「サカ人」なのであれば、肌の色からインド系オーストラロイド人種だとわかる(崇峻天皇と蜂子皇子の系統の場合)。

(h)インド系オーストラロイドは、中央アジアの壁仏教壁画にも登場している。

 (i)つまり蘇我氏武内宿禰の子孫でというのは、そのまま鵜呑みにできないことになる。純粋な日本人だとは言えないのかも。

 

というふうな想像が可能だった。

 

United Nations Environment Programme

http://www.unep.org/

このサイトの

というPDFファイル。ここに「Skin colour map」という、人の肌の色を表した地図があります。

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これの解説図が以下の画像。

なぜか九州と四国は黒色人種になっていますけど・・・(日焼けの時期に測定したのか)。

しかもなぜか北海道がない(なにか反日的な操作が入ってる・・・)。

 

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オレンジ色の点線を見てください。かつて「黒いギリシア人」と呼ばれたインド・グリークのいた地域は、褐色になっています。

昔から洋の東西を問わず、褐色の肌は「黒い」と表現されたのでした。

水色の点線は、歴史上でバクトリア、大月氏アフガニスタンとなっている地域。

青い点線はサカ(塞)のいたあたりです。サカはバクトリアやインドグリークの地域まで移住していたので、この辺りの民族は長崎ちゃんぽん化してました。

サカは南へ行くほど、肌色は褐色になっていて、バクトリアは白人種と褐色の人種が丁度混ざり合った国でした。

 

 蘇我(ソガ/soga)というとサカ(saka/sakai)のほかに「ソグディアナ(sogdiana)」が思い起こされます。

ソグド人の本拠はバクトリアとサカの領域の重なるあたり。蘇我ソグド説もありうるかもしれません。

 ところでインド半島の中央部はオーストラロイドといって、ネグロイドモンゴロイドコーカソイドとも違った人種と言われます。オーストラロイドはインド、東南アジア、オーストラリアのアボリジニが含まれます。

 

おそらく蘇我氏は、「黒い肌と白い肌の入り混じった、バクトリア地域のサカ人集団」が帰化したのではないかと考えました。

そのことは、蜂子神社の色黒な蜂子皇子と、両隣の白人種を描いた御尊影に表されています。

蘇我氏の血を濃く引いていた崇峻天皇と蜂子皇子の場合、黒い肌のインド系オーストラロイドの外見的特徴を持っているサカ人(蘇我氏)の末裔だったということに。

実はそれを如実に物語る証拠はまだあります。

2に続く

 

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