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たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅勤務の自営業。

ユーラシア大陸東部の粛慎(挹婁)は縄文人と同じ民族だった?

中国 古典 地名 大陸 日本書紀 東夷

やることが色々あるのになかなか進まない。そんな日々ですが、去年の年末あたりから体調が悪くなったり良くなったり。

世間の意地悪に襲われたり、逆に良心を感じ取ったり・・・。

次作の原稿は書き直し、結局ぜんぶ調査しなおし、図表の作り直しをして大変な作業になってますけど・・・。3月までにできるのか怪しい情勢。早く完成しないと、タイムリミットが近いんじゃないかと、そんな焦燥感に苛まれるこの頃。

と言いつつブログのほうを書いていたりする。

一つの目標を進める場合、時には一見して無関係なものを調べることで、ヒントを得られたりする。

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古代中国ではかなり昔から、東北部の「粛慎(しゅくしん)」という民族が登場します。 

粛慎があったのは、ユーラシア大陸の日本海に面した土地。現在はロシアのプリモルスキー(沿海州)、中国の黒竜江省の付近。ウスリー川とアムール川が流れ、ハンカ湖のある平野部と、その周囲の森林に覆われた山岳地帯を本拠としたようです。

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紀元前1世紀頃の粛慎の位置(ウィキペディアより)

 

初登場は、中国最古の王朝「夏」(実在か未確定)より以前の、三皇五帝の舜の時代のことだそう。

これは黄河文明だとか長江文明の時代で、紀元前14,000年~紀元前2,000年ころのことだという。本当ならば、まさに縄文時代のこと。ほんとかどうか。

周の時代(紀元前1000年)の『書経』、孔子の時代(前500頃)の『国語』、『山海経』(紀元前400~西暦100年代)、『後漢書』(5世紀)などに登場し、粛慎はけっこうな存在感を見せます。

 

息慎ともいい、後裔には挹婁(ゆうろう)、勿吉(もっきつ)、靺鞨(まっかつ)、女真(じょしん)族がいるとか。でも後裔の人々は、時代が経過するに連れて、中国系、テュルク系など他民族と融合し、民族的に純粋な粛慎とはいえなくなっていたようでした。

 

ところでこの粛慎、『日本書紀』にもたびたび登場しますけど。

日本では粛慎を「みしはせ」と言ってました。

欽明天皇のとき、佐渡ヶ島に粛慎が船で来たそうです。佐渡の人々は粛慎人を鬼と呼んで、あれは人間ではないなどとも言ってます。妖怪人間ベム「早く人間になりたい」が思い起こされるところ。

斉明天皇のとき、阿倍比羅夫の軍と戦ったとあり。阿倍比羅夫と戦った粛慎は、大陸から船で北海道に来たということらしい。渡島と書いてあるから、津軽海峡の北の、北海道の渡島半島のことか。

 

粛慎は言語的には古アジア語族で、縄文人と同様だったということ。

2万年前、縄文人はロシアのバイカル湖の付近から東漸し、日本列島に入ったとされています。縄文語がツングース系の言語に似ていとされるのも頷けます。

粛慎は、バイカル湖と日本列島のちょうど間に位置しているので、縄文人が東へ移動するときに大陸に残ったのが粛慎人と見ることが可能でした。

 

縄文人と粛慎が同一民族であるという仮説がないか調べると、以下の様な意見が。

ズーズー弁は粛慎由来 - Yahoo!掲示板 - Yahoo! JAPAN

縄文人=粛慎人という意見はあったようす。

 

では粛慎の風習は縄文人の風習に近いということになる。

国史書に残る粛慎の風習を見てみます。手っ取り早くウィキペディアから引用すると、

・粛慎氏は(楛という木)でできた矢と石弓を持ってきた『国語』

・粛慎の習慣として、衣服は着ないが、中国で、聖帝が即位すると、雄常の木の皮を剥いで、衣服にするとされている『山海経

・肅慎が朝貢して石砮と楛矢を献上した『後漢書

・夏の間は樹の上に住み、冬の間は地下の穴の中で生活する。父子が代々君長となる。文字はなく、口頭でもって約束ごとをおこなった。馬がいるが乗らず、ただ財産とするだけである。牛や羊はいないが、多くの豬(ブタ)を飼っており、その肉を食べ、その皮を衣とする。毛を紡いで布とする。樹の名前に雒常(らくじょう)というものがあり、中国の聖帝が新たに帝位につく時には、その木は皮を生じるので衣とすることができた。井戸や竈(かまど)はなく、瓦鬲(がれき:土釜)を作り、それに4,5升を盛って食べる。座り方は両足を伸ばして座り、足をもって肉をつかんで食べ、凍った肉を得れば、その上に座って暖める。その地には塩や鉄がなく、木を焼いて灰を作り、水を注いで汁を取り、それを食した。人々はみな髪を編み、布で襜(せん:まえだれ)を作った。その大きさは径一尺あまりであり、それで身体の前後を蔽った。結婚しようとする時には、男が女の頭に毛羽を挿し、女が結婚を承諾すれば毛羽を家に持ち帰り、然る後に礼をつくして女を娶る。婦人は貞淑であるが、女はほしいままにふるまう。人々は壮者を貴び、老人を賤しむ。死者はその日のうちに野に葬られ、木を組み合わせて小さな槨(かく:ひつぎ)をつくり、豬を殺してその上に積み、死者の糧とする。性格はあらあらしく、憂い哀しまないことをもって互いに尚んだ。父母が死んでも男子は泣き叫んだりしない。泣き叫ぶような者は壮者とは言わない。盗竊した者はその多少にかかわらず皆これを殺すので、あたりに放り出していても盗む者はいない。武器は石砮,皮骨の甲,3尺5寸の檀弓,長さ1尺数咫の楛矢[2]がある。その国の東北には石を産出する山があり、その石の鋭利さは鉄をも凌ぐほどである。これを採取するときには必ずその前に神に祈るのである。『晋書』

 

以上の粛慎人の特徴を見ると、縄文人と同じ系統の民族だったと言えば、確かに縄文人ぽいところも見えるようです。 古代の中国人が、縄文人と同じ系統の民族を記録していたとすれば、粛慎についての記録の注目度は俄然高まるところです。

縄文遺跡からは弓と矢が出ます。縄文人は弓矢の使い手だったようです。

粛慎人が「地下の穴の中に住む」というのは竪穴式住居といえば確かにそんな気がします。竪穴式住居というのは地面を掘り、木の柱に枝で骨組みをつくり、壁や屋根を土で固めたものがありました。

粛慎の「粛」「慎」はどちらも「つつましい」意味の漢字。慎ましい上に慎ましい人々だったとか。

と書いていて、もしやと気づいたことがありますが、そこは省略して。

 

 ということは縄文人が、自分たちの民族名を、なんと呼んでたのか想像がつきます。

粛慎は、しゅくしん→ちゅんぐし→ツングースと同じであり、

粛慎は、しゅくしん→つんぐーす→ちくーし→筑紫(九州)であり。

粛慎は、しゅくしん→くしん→→こし→高志→越(こし)=北陸地方の名であり

粛慎は、しゅくしん→つくし→つぐし→つが→ツガル→津軽

筑波もそうであろうと。

ツングース=筑紫」については、こちらのサイト「ウソ発見の億のウソ道」にあります(教えていただきました)。

 

つまり縄文人は、自分たちのことを「筑紫の民、越(こし)の民」のような感じか、或いは「みしはせ」などと呼んでいたのではないかと。

そういう想像は付くところです。

 

 ちなみにアムール川樺太付近のニヴフ族(ギリヤーク)は、粛慎・挹婁の末裔ではないかと言われるとか。

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ニヴフの民(ウィキペディアより)

 

衣服は、中国やテュルク系民族に影響された様子でありますが。

彼らの風習で注目すべきはトルフと呼ばれる半地下式住居に住んでいたところ。粛慎、縄文人が半地下式住居(竪穴式住居)だったのと同じでした。

 

ということで、 中国史書は縄文人を間接的に記録していたと言えるかもしれませんのです。真の縄文人の生活文化や言語を知るには、縄文人に近いとみられる大陸の粛慎・挹婁を、粛々と研究することが必要ではないかと思いつつ、筋肉と神経とリンパを揉みほぐす日々です。

 

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