(3)関東の畝傍山編 2015年1月11日
(4)関東の大和三山の結論
この記事は1月3日に公開する予定だったんですが、いろいろあって伸びのび太。特に体の神経・筋肉・血管・骨川スネオが痛むという不調に襲われたので、正月早々、ほとんど何もできずにしずかに過ごした日もあり。
○いつも助かっております
奈良県の大和三山の一つである、畝傍(うねび)山。歴史上に初登場したのは、『日本書紀』の神武天皇の東征の最後の場面です。
神武天皇以前の神代には、あたかも畝傍山が全く無かったかのごとく、全く登場してきません。奇妙。
畝傍山といえば漢字表記がいろいろあり、別名も存在します。ウィキペディアによれば、うねびの漢字表記は、
畝傍山、畝火山、雲根火山、宇禰縻夜摩
別名
慈明寺山、御峯山、瑞山
うねびの「び」は明確に「ひ」のことです。太陽の日、燃えさかる火という、熱や光を表すもの。
そして太陽神天照大神の子孫の日嗣であり、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)の諱(実名)を持つ神武天皇に関係する山です。
だから、び(日)、畝火、雲根火、慈明の字が用いられ、瑞(神のしるし)、御(天子を敬う言葉)などの字も選ばれて、上記の幾つかの畝傍山の名に用いられたと考えられます。
神武天皇が宮殿を造営したのは、記紀によれば「大和(奈良)の畝傍山の東南の橿原の地」とあります。
現在の奈良県橿原市の橿原神宮の位置が、かつて神武天皇の橿原宮の所在した場所だとか。『日本書紀』によればそれは紀元前660年のこと。
しかし明治時代以前、橿原神宮の場所に神社があったかどうかは不明。現在の橿原神宮が創建されたのは明治23年(1890年)のこと。
明治時代の橿原神宮が建てられる以前には「洞村(洞部落)」という村があったようです。被差別部落だったと言われます。
『「天皇陵」総覧』に掲載される江戸後期の「聖蹟図志」という地図を見ると、山本ノ洞村とあります。山本村の洞村。
洞村の「ほうら」という名の由来は「火遠理命(ほおりのみこと)」のような気もします。火遠理の別名は彦火火出見命(ひこほほでみのみこと)で、神武天皇の祖父のこと。洞村というのは神武天皇に関係のある地名が名づけられたのに、いつしか洞村となり、どんな理由なのか被差別部落と化した、そんな気がするだけです。
地図には洞村に「天之カシハ」の字があって、確かに江戸時代に天之橿原として伝承があった様子が伺えます。しかし「聖蹟図志」の地図には、橿原神宮もしくは橿原神社という社は確認できないのでした。
関東の畝傍山探索結果
茨城県東部、太平洋の鹿島灘を臨む那珂川の河口付近にある、ひたちなか市。ひたちなかとは、茨城の旧称、常陸(日立)国と那珂郡を合わせたものです。
ひたちなか市の那珂湊港に近い、富士ノ下というところに、橿原神宮(橿原神社)があります。関東では珍しく、神武天皇を祭っている神社。
社伝によるとこの橿原神宮は、和銅年間(709~715年)の創建だとか。元は平安時代に柏原大明神と言われたようです。その後橿原神宮に改称されました。
近くに「洞下町」があり、奈良の橿原の「洞」を移植している様子が伺えます。
しかし畝傍山という山は、神社の西北部に確認できないのでした。
ひたちなか市の富士ノ下の橿原神宮は、過去に遷座された経緯があるようです。
元の場所は富士ノ下より南西方の、涸沼(ひぬま)という湖の北岸でした。涸沼北岸、東茨城郡茨城町の中石崎、昔は石崎村升原の土地にあったとのこと。
つまり709年頃に涸沼のそばの石崎村に柏原大明神が創建され、851年頃にひたちなか市の富士ノ下に遷座し、後に橿原神宮に改称したという経緯があるとのことです。
橿原神宮(ひたちなか市)に詳しいです。
ところでこの涸沼(ひぬま)は、振り仮名がないと読めません。伝説の動物「ツチノコ」の形状をしているように見えます、関係ないですけど。
で、水戸市の茨城県庁の笠原という地名は、おそらく柏原(橿原)の名残りかもしれません。
そこで、元柏原(橿原)神社があった涸沼の西北部を探してみるのですが、やはり畝傍山は存在しないのでした。
ところで「大明神」とは、奈良時代以降に登場した、神を表す称号らしい。権現というのもある。
昔の日本人は「神の名を口にすることを畏れ多い」として避け、なんとか大明神、なんとか権現と言ったとか。つまり神武天皇が柏原大明神として呼ばれ、祀られたのはそんな経緯があったとか。
そういえば、日本人の「神の名を口にすることは恐れ多い」という思想は、ユダヤ人がヤハウェという神の名を避けて、アドナイ(主)やハッシェムと呼んでいることに似てますね。元はモーセの十戒に由来するらしい。
なんで日本人とアチラの風習が似ているのかと考えると、2012年にこんな記事を書いたの思い出しました。
淤能碁呂島、天御柱、八尋殿。1 (旧約聖書と、古事記の記述の奇妙な符合点について)
参考に。
ちなみにこの茨城県ひたちなか市の橿原神宮は、九州系地名の観点からすると、日向(宮崎県)の高千穂宮に対応します。常陸(日立)国とは日向国に対応する名であります。
日向の高千穂は、天上界・高天原の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が降臨した土地。高天原に最も近いという位置づけなのか。
以前ブログで高天原候補地をまとめていました。
高天原候補地として新井白石は茨城県、常陸国多賀郡の名を取り上げました。
ということは、ひたちなか市の神武天皇をまつる橿原神宮が、神武天皇の居住地だった日向の高千穂宮に対応するようです。
九州系地名の話は長くなるのでこのへんにしておいて、別の畝傍山候補地を探索します。
・美浦(みほ)村の根火
霞ヶ浦の西岸の稲敷郡美浦村に、「根火」という地名があります。ここは流山市の三輪野山、成田市の成田山、香取神宮からはさほど離れてない場所。
根火の東に隣接して、標高30メートルほどの小高い山があります。現在の山域にはゴルフ場が作られていて、昔の面影はあまりないようです。
この山の中央付近に「陸平貝塚(おかだいらかいづか)」があります。
貝塚というのは縄文時代の縄文人のゴミ捨て場のこと。ゴミ捨て場といっても現代の人類にとっては宝の山。縄文人の生活を知る上で重要な遺跡です。
この山の遺跡が陸平貝塚という名称になっているということは、この小高い山の名称は「陸平(おかだいら)」であるようです。
近くに「馬見山」の地名もあるので、馬見山なのかもですけど。
陸平の真ん中に、神明社があります。神明社は全国に5000~1万数千もあると言われる、全国的に広まった神社。主祭神は天照大神となっています。
つまり陸平、馬見山と呼ばれていた山は、天照大神を祭る山であったようです。
この陸平は、元は畝傍山だったのではないかと発想してみました。その理由を述べます。
明治時代初期~中期にかけての地図を収めた「歴史的農業環境閲覧システム」の明治時代の古地図を見ると。
美浦村には「安中村字根火」があります。「字」は「あざ」なのですけど、どうしても「字根火」を合わせて「うねび」に見えてしまいます。
奈良の畝傍山の別名を思い出すと、「雲根火山」。
美浦村の根火とは、元は「雲根火」の根火なのではないかと十分に想像できてしまいます。
そして根火の周辺には、奈良の三輪山近辺の地名が見られたりもする。太田、茂侶村(三諸山)、馬見山)など。美浦村の美浦(みほ)は、三輪山の三輪のことか。
流山市の茂呂という地名が三諸山(三輪山)のことだから、美浦村の地域にも三輪山があったかもですが。
奈良盆地の三輪山・大神神社に対応している、関東平野の三輪野山・三輪神社
奈良の畝傍山には畝火山口神社があります。神社の元の祭神は大山津見神であるとのこと。天照大神の孫、瓊瓊杵尊の妻になった木花咲耶姫(このはなさくやひめ)の父は大山津見神であるから、美浦村の陸平の神明社に天照大神がいることと、奈良の畝傍山の神社は、祭神についても関係がある様子。
根火のそばの陸平が、かつて「雲根火山(畝傍山)」と呼ばれたかも知れず、根火とは雲根火の名残であると十分に想像できてしまいます(大事なことだから2回言いました)。
重要なことが、ほかにも。
茨城県美浦村の根火と、他の地点を結びつけると、ちょうどいい位置で、二等辺三角形が現れることです。流山市の三輪山を結びつけると、もう一つの二等辺三角形も現れます。
これは九州の筑紫平野の元大和三山と、奈良盆地の大和三山と比較すると、明確な証明ができるようです。
詳しくは電子書籍にあります。
ではどこの大和三山候補地と結びつけると、明確な二等辺三角形が現れるのか、気になって眠れない感じです。正月早々、寝不足はやめたほうがいいですので、しっかり睡眠は取りませう。
最後の総まとめ(4)に続く。
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