『封印された叡智の回復(仮)』の原稿がなかなかまとまらない。というわけで、ブログでちょっとづつ内容を発表しつつ、まとめていくことに。
○いつも助かっております
これは、拙著『崇神天皇に封印された卑弥呼と壱与』と電子書籍のほう『日本の地名の~(略)』にもあります。
崇神天皇に卑弥呼と壱与が習合されてる説については、昨年行ったアンケートにの結果よると、可能性があると答えた方がけっこういました。
崇神天皇=卑弥呼+壱与説を明確に証明する方法は、拙著で指摘した以外には無いんじゃないかと、そう思っていませぬか。・・・ほんとは幾つかあります。
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京都府向日市の「五塚原古墳」。3世紀後半の前方後円墳で、全長91メートル。
こちらのブログ「幕末に桓武天皇皇后陵とされた古墳(五塚原古墳)」 によれば、「この古墳は、江戸時代には、平安時代の桓武天皇皇后の藤原乙牟漏(おとむろ)の御陵「高畠陵(長岡陵とも」と考えられていました」らしいです。
この古墳の形状は、奈良県桜井市の「箸墓古墳(倭倭迹迹日百襲姫大市墓)」に瓜二つであるそうです。箸墓古墳は3世紀中葉~後半頃(諸説あり)の最古級の前方後円墳で、卑弥呼の墓であるとも言われます。
箸墓古墳を3分の1サイズにしたものが、五塚原古墳とみられるとのこと。
今後調査が進めば、「箸墓古墳が先で、五塚原古墳が後に造られた」ことがはっきりすると思われます。五塚原古墳の年代を知ることが、箸墓古墳の真の年代を知るための要素になります。
五塚原古墳の被葬者は不明です。しかし箸墓古墳と五塚原古墳が同じ形状であることを踏まえると、両古墳の被葬者は、近親者であるかもしれません。
親子か兄弟か夫婦か、という近しいところ。
実は
「五塚原古墳と箸墓古墳が瓜二つの古墳」であることが、「崇神天皇=卑弥呼+壱与説」を後押しする逸材だったことがわかってきたので、今回ちょっとお伝えします。
と言っても信用なさそうだし、なんで五塚原古墳と箸墓古墳が関係するのか、意味不明と思うので、けっこう詳しく解説します。
とよとよ
『魏志』では、女王卑弥呼には子供が居ないことになっています。
女王壱与は卑弥呼の宗女(親戚)です。壱与に子があったかどうかは不明。
しかしその名前から想像することは可能です。
『日本書紀』を見ると、崇神天皇には皇位継承権をもつ2人の皇子がいました。活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりびこいさちのすめらみこと)と、豊城入彦命。
この二人の皇位継承の場面は、日本書紀内で詳細に特筆されています。
活目入彦は第十一代垂仁天皇となりました。豊城入彦命は東国(関東)を治めて毛野氏の祖となっています。
つまり系図上では、
こうなってますけど。崇神天皇=卑弥呼+壱与説だとどうなるか。
こうなってきます。
まあこれだけだと、何の関連も見えない。妄想と言われて仕方ない。しかし。
『魏志』の、女王壱与の正式名称を見てみる。
「壹與 」これは「壱与(いよ)」で合っています。しかし『梁書』では臺與(台与)とあって、違う字が用いられていました。
つまり女王壱与(壹與)には「いよ」と「とよ」という音が当てはまっている。
これを念頭に起きます。そこでもう一度、系図を見直してみると、
女王「とよ」の子が、「とよきいりひこ」だったのですよ。わかりましたね。
要するに崇神天皇の皇子、豊城入彦命の「豊」とは、3世紀編纂の『魏志』の女王壹與(とよ)を継承した名前であるのですよ。
そうすると「崇神天皇=卑弥呼+壹與説」の中の、「崇神天皇=壹與(壱与・台与)」という仮説の信憑性が出てきたことになります。崇神天皇は3世紀といっている理由が、わかってくると思います。
しかしまだこれだけだと、信じがたいとなる気がします。
いちいち
再び壱与の字に戻ります。
壱与は「壱」。これは漢数字「一」のことです。発音は「いち」。
すると壹與(壱与)と完全に同時代に造られた箸墓古墳「倭迹迹日百襲姫大市墓」に「大市墓」が付いていることと、壹與の「壱(壹)」が関係している風にみえます。
そうなので、
・大市とは壱与の名を写した地名なのではないかと。
・箸墓古墳は壱与の御陵なのではないかと。
・箸墓古墳と五塚原古墳が同じ形状なのは、極めて近しい関係だからではないかと。
それで箸墓古墳の年代が3世紀中葉~後半あたりだとします。壱与の没年はわからないのですが、個人的な計算だと、おそらく280年ころです。これは崇神天皇(壱与)の崩年です。
垂仁天皇の実際の崩年は恐らく西暦300年を過ぎたころです。
五塚原古墳は3世紀後半ということでしたが、西暦300年ころといえば3世紀後半との誤差は無い感じです。
なんでここで、五塚原古墳を引き合いに出すのか?
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話は変わって・・・
『「天皇陵」総覧』によれば江戸時代の元禄十二年(1699年)に「菅原伏見陵(垂仁天皇陵)」と治定された、奈良県奈良市尼辻の「宝莱山古墳」。
実際にはほんとうの垂仁天皇陵ではないと言われています。
『天皇陵総覧』を見ると、本居宣長は「さて此御陵を書紀に伏見とあるのは疑はし(中略)猶よく考ふべし」と言っているようです。
『「天皇陵」総覧』の垂仁天皇陵の頁の著者である濱口氏は、「宝莱山古墳を天皇陵として治定することを積極的に肯定、あるいは否定する意見は聞かれない」と言います。さらに「藤井利章は『天皇と御陵を知る事典』で、宝莱山古墳がその墳形から、古墳時代前期から中期への過渡期敵形態をもち、垂仁天皇陵が実在したとすれば、時期差が認められ、検討の必要な古墳であるとしている」と言います。
じゃぁほんとの垂仁天皇陵はどこなのか?という問題は、未だに解決を見ていないのです。
今回、「崇神天皇=女王壱与の子が豊城入彦命と垂仁天皇」であるとの仮説を踏まえて、真の垂仁天皇陵がどこなのか確定してしまいます。
長い間、奈良県奈良市尼辻町西池に所在する宝莱山古墳であると言われてきました。しかし年代が不整合であるとの指摘が気になる。
『「天皇陵」総覧』によれば、垂仁天皇陵は日本書紀編纂の頃には、所在地が不明になっていたという。いま垂仁天皇陵と言われる古墳は、以前には別の人物が埋葬されたとの記録があるという。
そこでこの「伏見」とは、奈良市の宝莱山古墳ではないのだと考えるのです。
そこで、菅原伏見の伏見とは、山城国(京都府伏見区)の伏見のことであると考えてみます。
京都府伏見区の伏見の由来を調べると、「伏し水」とあります。伏し水とは、滞って流れない水の意味だそう。
京都府伏見区の伏見稲荷、伏見城のあたりが伏見です。しかし伏見区内には、宇治川、桂川という大きな川が流れてるではないですか。つまり伏し水が本当の由来ではないように思われてきます。
ともかく、京都の伏見は古い地名かとみられる。
伏見があった場所はかつては山背国(山城国)久世郡。一方で、向日市の五塚原古墳の場所は、山背国乙訓郡
向日市の五塚原古墳のちかい場所に、伏見稲荷神社や伏見城があるのです。
伏見稲荷のあたりが伏見の中心であるが、古代には五塚原古墳の付近までも、伏見と呼んだのかは不明。もしかすると向日市のあたりは、3世紀頃は伏見だったかもしれず。
五塚原の「塚原」は「菅原が訛ったもの」であるとすればどうだろう?すると向日市の付近は「菅原」「伏見」が揃った地域と見ることが出ますね。
結論として、
・箸墓古墳と五塚原古墳の形状がそっくりであること
・箸墓古墳は3世紀中葉~後半の古墳であること
・五塚原古墳の年代が3世紀後半と見られていること
・垂仁天皇は崇神天皇(壹與)の皇子で、3世紀末~4世紀初頭の天皇であろうこと
・向日市の五塚原古墳が江戸時代に五ツ塚原と呼ばれ、塚原と菅原は似ていること
・五塚原古墳は伏見に近接していること
を踏まえると、
五塚原古墳に垂仁天皇が葬られた
つまり、
だったことが導かれてきてしまうました。
補足すると、五ツ塚原の「五ツ」とは、活目入彦五十狭茅の「五十」のこと。
また、五塚原(いつかはら)とは、菅原(すがはら)が塚原(つがはら)に転訛し、垂仁天皇の「五ツ」を加えたものであるようです。
突然このような発想を持ち出しまして、向日市の皆様にはご迷惑をおかけしますが・・・。
箸墓古墳についても、崇神天皇=壱与の御陵であるとする根拠はまだあります。過去ブログでも触れた理由で。
これらを証明する根拠が、さらに存在しているのですけど、続きは『封印された叡智の回復(仮)』で。
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ところで、理由はどうあれ、俺は圧倒的に絶対的に、とても酷い目にあっていますけど。
超多数勢力は、俺の一挙手一投足に反応して、俺の言葉をイヤがっていますが。
俺の嫌がることを、大勢で山ほどやっているくせに。
俺はいつのまにか、大多数勢力と対等の関係になっていたのか。
数千数万が、俺の悪口を常に言ってますね。
俺1人が、1つ何か言うと、超多数勢力は飛び上がって大騒ぎをするのですよね。
俺はいつから百人力、万人力になったのか。その割には収入が少ない。
言ってることが大袈裟過ぎるとか、大風呂敷を広げ過ぎと思われますね。
でも、まぁこの言葉の意味が分からない人も、近いうちに分かるようになるかもしれんです。
崇神天皇と五塚原古墳の正体についても同じことです。
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