たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅お仕事中。

出現期の前方後円墳の建造計画の一端が明らカニ?

なんか輪番制でデカい声出す子供が、またまた連日近所に登場しているし、テレビは「見ると鬱になる道具」になったので見たくない聞きたくないと感じるこの頃。

つきまといの方々に馬鹿にされ続けましても、まだ希望は残っています。

 

○いつも助かっております

 

 

 

出現期の前方後円墳

 

下は出現期の前方後円墳(特に3世紀前半以前の前方後円墳について)を調べたものです。

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四国の徳島県の萩原古墳群は、積石墳丘墓と表現される形式なのですけども、誠に残念なことに1号古墳は現存していません。当時はそれほど重要度が高くないと認識があったのか、1号古墳は道路建設のために破壊されてしまいました。

今なら最重要の遺跡として、つつがなく保護されるくらいのものでした、無念なことでした。この墳丘墓は形状が前方後円墳と全く同様であるので、前方後円墳と同じ意味合い・用途により築造されたものだと考えて差し支えないです。

岡山県の宮山古墳は墳丘墓ですが、円形の人工丘に前方部が付属しており、厳密に言えば前方後円墳と大差無いものといえます。

 

奈良県の纏向古墳群の4つは纏向型と言って、これは帆立貝形とも称される、前方部が短く全体として帆立貝の形であるもの。出現期の古墳の代名詞といえばこの纏向古墳群みたいな感じです。

すぐ近くにある箸墓古墳は最古の前方後円墳などと言われますが、実際の所「日本書紀の中の最古」「記録上の最古」であって、「築造年代の最古」とは言い難いように思われました。それで地図上に含めていません。

箸墓古墳は3世紀中葉~4世紀前半までの築造年代が推定されています。

 

以上のように出現期前方後円墳(3世紀前半以前)は、東は千葉県から西は宮崎県までちらほらと散見されます。

で、お試しにこれらの古墳の位置を、地図上にプロットしてみたのです。するとこれらの出現期前方後円墳の配置は、何か左右対称的に形作られているように見えることが分かりました。

 

・線で結びつけると、中央に逆さまの台形が浮かび上がる

 

滋賀県の新郷亀塚古墳から、千葉県の神門古墳群までの距離

滋賀県東近江市新郷町~千葉県市原市惣社5丁目)358.2km

 

岡山県の宮山古墳から、宮崎県の西都原81号墳までの距離

岡山県総社市三輪~宮崎県西都市三宅姫塚)358.2km

 

つまり小数点以下まで、まったく同じ距離なことがわかってしまいました、疑い深い方はご自分で測ってみてください。

邪馬台国卑弥呼が治めた当時、まだ前方後円墳は日本列島に数える程しかありませんでした。

そんな中で、一つの明確な計画に基いて、前方後円墳が配置されたから、東西の古墳の距離が全く同じなのだ、と考えて差し支えないような。

 

ちなみにわたくし邪馬台国筑紫平野説を支持で、邪馬台国東遷説も支持してますので。ではー。

 

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