たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅勤務の自営業。

応神紀に見える呉へ渡航の記述は義熙9年(413年)か

文章の出だしはひとマス開けるという決まりに拘ってたんですが、ネットのブログ等ではそういう決まりが適用され無いらしいので、やめました。

 

応神天皇の話。

応神天皇は何時の時代の天皇なのか、諸説あります。個人的には西暦400年前後の天皇だったと思います。

しかも応神天皇の在位は41年年間となってますが、これは要するに倍暦だと思います。しかも普通の倍暦じゃないようです。その辺の説明はいずれしますが・・・。

 

 

 

応神天皇の時代に、使者を大陸へ送ったとの記述があるのが、その根拠となります。日中の記録を比較してみます。

 

まず日本書紀

応神天皇三十七年阿知使主・都加使主を呉に遣わし、縫工女を求めた。阿知らは高麗(高句麗)ヘむかい、呉を目指した、高麗王が久礼波・久礼志を道案内としてよこしたので、阿知らは呉へ行くことが出来た。

 

次に南史東夷傅

晉安帝時、倭王讃遣使朝貢

次に晉書帝紀

義熈九年 是歳、高句驪、倭國、及西南夷、銅頭大帥、並獻方物

 

晉安帝というのは西暦404~418年の皇帝で、義熙は405~418年の元号です。

 

倭王讃の正体については、次のような説があります。

仁徳天皇諡号「大鷦鷯」の「鷦(さ)」が讃なのだという説。

・宋書から系図を導くと履中天皇だという説

・九州王朝の王

 

個人的には応神天皇諡号「誉田」の「誉める」が「讃める」に対応しているとして、応神天皇説、または応神・仁徳が合わせられている説を考えてます。

 

それを証明するのが、義熙九年の記録です。

 

魏志倭人伝の女王卑弥呼と女王壱与の時代以降、中国との交流の記録はめっきりと減りますが、壱与の時代のものと見られるこんな記録があります。

 

晉書帝紀  泰始二年(266年)十一月已卯、倭人來獻方物。

 

泰始二年(266年)に皇帝に献上しているのは女王壱与の使いが送られたものと考えられてます。

また、晉書帝紀の西晉の武帝司馬炎)の時代(265~289年)には、「東夷二十国来献」とか「東夷十一國内府」などあり、この東夷には倭も含まれるかもしれません。

 

晉書では、東晉の元帝(318~319年)の時代以降の記録では、来朝した国の名を明記するようになっています。そこで注目されるのが先述した記録、

 

南史東夷傅

晉安帝時、倭王讃遣使朝貢

次に晉書帝紀

義熈九年 是歳、高句驪、倭國、及西南夷、銅頭大帥、並獻方物

 

日本書紀応神天皇のとき、高句麗と呉へ向かい、高句麗人と倭人が一緒に中国の首都へ出向いたわけですから、日本書紀の記録が晉書にあったということになります。。

日本書紀応神天皇三十七年=義熙九年(413年)なのではと思います。

呉というのは当時の倭人が中国南方を呼び表すときの通称で、晉のことも呉と言っていたと判断できますので。

しかもこれを証明する要素がもう一つありますが、生きてればまたこんどの機会に。

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