読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅勤務の自営業。

邪馬台国の彌馬と御間城1(系図付き)

 邪馬台国の卑弥呼は崇神天皇であり、邪馬台国の宮殿は瑞籬宮であると考えています。

 邪馬台国には、卑弥呼と共に、次の4人の官吏が登場しています。男弟というのも登場するが、それは除いて次のようになる。

1・卑弥呼
2・伊支馬(いきま)

3・彌馬升(みましょう)
4・彌馬獲支(みまかき)
5・奴佳鞮(なかて) 

 この中の「彌馬(みま)」、実は古事記日本書紀にも登場します。人名です。「みま」の名が付く登場人物が以下の通り。

1・見松彦香殖稲天皇(第五代孝昭天皇・みまつひこかえしね)
2・御間城入彦五十瓊殖天皇(第十代崇神天皇・みまきいりひこいにえ)
3・御間城姫(みまきひめ、古事記では御間津比売)

 この中のうち、2と3が、崇神天皇の時代の人物です。

 魏志倭人伝で登場する彌馬(みま)2人と、記紀に登場する崇神時代の御間(みま)2人が、名前も人数も一致するということになっていると考えられるのです。で、個人的には卑弥呼に御間城入彦の名までもが習合されてしまったのが崇神天皇の正体であるとの可能性も考慮しており、拙著に付記してあります。

 

 そして御間城の語源は朝鮮半島の倭人居住区「任那」であろうというのが江上説ですが、そうすると卑弥呼と共にあった彌馬升、彌馬獲支という名も、地名である可能性を否定しきれないことになってきます。

 卑弥呼の名前自体も、日向を表す説。これは筑紫島自体が日向と呼ばれた経緯があるところからもうなづけます。日向とは宮崎のいち地方だけを示す言葉では無いということです。その証拠に九州の西側にある肥の国(長崎・熊本附近)の古事記での別名は、「建日向豊久士比泥別(たけひむかとよくじひねわけ)」といって、日向の名を含むのです。

 以下は日本書紀を元に、孝霊天皇から垂仁天皇までの系図を描いたものです。

f:id:kl117cr233:20130122212708g:plain

これが西暦720年以前から、1300年以上も語り継がれてきた系図ということです。では次に、崇神天皇=卑弥呼+壱与説を元にした系図です。見て分かる通り、御間城入彦と御間城姫が、魏志倭人伝の2人の彌馬に対応します。

f:id:kl117cr233:20130123015916g:plain

崇神天皇は皇后=女性天皇であったと、古事記の序文に書いてあること
日本書紀での倭迹迹日百襲媛の役割を古事記では崇神天皇が担っていること
日本書紀崇神天皇と争った武埴安彦は、魏志で卑弥呼と争った狗奴国の卑弥弓呼と同一と見られること

などから導き出した系図ですが、今ひとつわかりにくい。

 そこで、次のように系図を単純化し、各天皇の在位年代も付記してみました。次のとおり。各天皇の在位年代は、推定(ちょっとてきとう)。

f:id:kl117cr233:20130122213533g:plain

崇神天皇が皇后(女性天皇)で、卑弥呼(倭迹迹日百襲媛)と壱与(台与)まで含むということは理解できたかと思いますが、ではなぜ「御間城入彦」と男の名前が付いているか。それはこの図の通り、2人の女王の間に男王が挟まっていたから。その男王とは、御間城入彦だった、日本書紀編纂の頃には、真実が解らなくなっていた、という理由であれば、説明がつくかもしれません。

 なお、魏志倭人伝の伊支馬とは、壱岐出身の官吏の可能性もありそうだし、垂仁天皇(活目入彦)の可能性もありそうです。奴佳鞮は中臣氏であるか、国方姫(く奴佳鞮姫)かもしれませんが。

 というわけで今回も、魏志倭人伝の卑弥呼の邪馬台国が、日本書紀崇神紀と同一の世界観であるという説、「崇神天皇に封印された卑弥呼と壱与」の補強に勤しみました。

2に続く。