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たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅勤務の自営業。

欠史八代期の関東の謎

 最初から作家業だけで生きて行くのは厳しいに違いないと思ってました。が、出版前と出版後では、両親のお陰で生きている状態であることについては、特に変化はなしです。

 社会的な自立を目指してたのですが、どこかの会社員として就職してるわけでもなく、自由業でありながら収入を求めることを貫徹しようとする立場も変わらず。己の僅かに積み上げた人生から鑑みると、そうせざるを得ない境遇であるので・・・そうすると30代を過ぎて以降の生存率は、必然的に低いに違いないとは10代の頃から思ってましたけど。まだ生きておりますが。

 それにしても、何ら達成できない役立たずの臭い引き篭もりであると、呼ばれざるを得ない時期から比べると、世の中が俺を見定める厳格な査定の目みたいなものには、ほんの僅かに明るい兆しみたいなものが見えていたりすると感じるのは、錯覚でもない気がしますよ。過去と変わらない部分も多いにしても、あの子はやれば出来る子なんじゃないかと、とうとう感づかれてしまいましたか。といっても人間界で生きていくのは精一杯の状況ですけども。

 

 ところで、欠史八代というのは、実在性に乏しいとされる第二代綏靖天皇から第九代開化天皇までのことで、日本書紀皇紀から導くと、紀元前581年~紀元前98年が欠史八代期ということになってます。

 ところが欠史八代が紀元前とかいうのは、まず歴史家先生の面々は支持してないです。何故かというと「倭の五王」を天皇として考えた時、五王の記録はだいたい第十五代応神天皇~第二十一代雄略天皇までに当て嵌められ、中国史書に記録された西暦でいうと413年~502年の間だからです。

 そこから遡って第十代崇神天皇は、せいぜい3世紀末期から4世紀の天皇であろう、そうすると必然的に第九代以前の天皇は2世紀から3世紀の間だろうと。そういうことで、欠史八代が仮に「有史八代」であるとしても、2世紀~3世紀の実在であろうというのが、歴史学の大方の見解になっているようです。。(異論みとめます。どうぞ)

 

 この欠史八代の歴代天皇の時代に創祀・創建されたと伝わる神社は、全国的には意外とあるのですが、実は関東地方にも若干数あるようなのです。この「関東にある欠史八代期の神社」というのは、「なんで存在するのかが不可解と言わざるを得ない状況のものがある」と考えてます。それは何故か?

 半年ほどかけて少しづつデータを集積してきましたので、以下に掲載します。

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ここに数える神社は、延喜式神名帳式内社、それに式外社も含めて調べあげたもので、自分の低学歴の低能力では調査に限界があったので、これがおそらく関東の欠史八代期の神社の総数であろうと考えます。

 この表とグラフ見て分かる通り、関東には僅かながら欠史八代期の神社があり、8世代で14社だけということは、1世代あたり1.75社しか建てられてないてことでした。第十代崇神天皇期に関東地方に創祀・創建された神社は、調べた所おそらく30社程はあるので、欠史八代期平均創建数と崇神期創建数の差は17倍にも達してます。それほど欠史八代期に関東に建てられたと伝承が残る神社は少ない、しかし少ないながらも厳然として存在するということです。(ちなみに神武天皇期の創建神社も少ない)

 

  これに関して、記紀の中で、気になる記述は崇神天皇景行天皇の条にありますた。関東地方は昔は東海道に所属しており、千葉県も東海道であり、千葉に関して詳しく述べますと、安房(あわ)国・上総(かずさ)国・下総(しもうさ)国と律令制下で細かく地域区分が明確になる以前は総国(ふさのくに)でありました。

 崇神天皇は武渟名川別(建沼河別)を東海道に派遣し、この將軍はまつろわぬ人々(天皇に服従しない者、蝦夷)を平定していきました。建沼河別は福島まで東征すると、そこで北陸道に派遣されていた父・大毗古命と出会い、それが福島の「会津」の地名の由来であるということです。これが3世紀の崇神天皇の時代、つまり卑弥呼と壱与の時代に起きた出来事であると考えます。

  さらに景行天皇の御宇に日本武尊の東征がありました。日本武尊は東海道から相模国上総国下総国常陸国陸奥国常陸国武蔵国、甲斐国と巡幸し、やはり各地のまつろわぬ抵抗勢力を撃破し軍門に下らせながら進んだのです。この時代が私見では4世紀前半と見ています。

四道将軍武渟名川別の東征 3世紀中~後半(推定)
日本武尊の東征 4世紀前半(推定)

 つまり、武渟名川別が3世紀に一旦平定したはずの関東は、数十年の後には再びまつろわぬ蝦夷が天皇に叛き、敵地となっており、従って日本武尊が再度平定することになったと、そういうことのようでした。

 

  で、関東地方の弥生時代後期~終末期にはどんな人々が住んでたか。それを知る手掛かりが、環濠集落です。

 環濠集落という集落形態があり、よく知られるのは佐賀県の吉野ヶ里遺跡だとか、奈良県の唐古鍵遺跡といった大規模なものです。環濠集落とは九州や近畿に多く在るといった印象でしたが、関東地方にかなり見つかっていることを知ったのは最近のことでした。

 市原市埋蔵文化財調査センターによると、南関東だけで178箇所も、弥生時代の環濠集落が見つかってるということです。卑弥呼の時代は西暦180年台から247年で、これは弥生終末期に相当します。

 欠史八代というのは先述の通り2~3世紀というのが大方の見解になりますが、私見として第十代崇神天皇は卑弥呼であるので、欠史八代は1世紀から2世紀に実在と考えてますが(ところが個人的に思う欠史八代は日本列島に存在しないのであるが、その点はまた別の機会に)。

 以下が市原市埋蔵文化財調査センターによる、南関東地方環濠集落分布図(後期~終末期)

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 上にある地図で、環濠集落が海岸線からすこし内陸部に位置しているのは、弥生時代後期(1世紀前後)の平均気温は高く、海岸線の波打ち際が、現在より内陸部に達していたからであろうと思います。ある程度海岸に近い所に環濠集落が多い気がします。(尚、卑弥呼の時代は若干寒冷化したと見られています。)

 この環濠集落という住居形態は、倭の文化圏、倭人の居住区なのであると思われたのですが、最近はどうも記紀を読むと、そうとも言い切れなさそうな気がして来ました。何故かというと関東はまつろわぬ蝦夷の土地であると再三再四記紀から読み取れるからです。

 つまり欠史八代期が1~2世紀にしろ、2~3世紀にしろ、どちらにしても関東はどんなに平定しても天皇勢力に従わない蝦夷の土地だったわけでした。

 海外神社と呼ばれる大日本帝国がアジア各地に建立した神社は、終戦直後の9割9分破壊の憂き目を見たことからも、敵地に残された神殿が影も形も残滓も残らぬ状態に置かれることは、想像がつくのでした。

 そういう意味で欠史八代期の蝦夷が支配する関東で、「天皇勢力側の神社が敵地に建立されて保存されたか」どうか疑問に思われてきてしまいました。結論出さずに終わります。

 

 また、蝦夷の特徴が極めて「馬に乗らない騎馬民族的」である点は、また今度の機会にかきます。 

 

 おわり