たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅勤務の自営業。

 東日本は狗奴国だったか

 狗奴国と言えば、魏志倭人伝で卑弥呼に反抗する勢力として記録される、倭の三十余国のうち一国です。
 狗奴国を、球磨郡を始めとする南九州南部の勢力であった「熊襲」として捉える向きもあります。これは「日本書紀」の記述を前提とすれば、景行紀には九州に熊襲がいたと書かれることからも、正しい解釈です。
 その一方で、狗奴国は九州の熊襲のことではなく、関東の一大勢力「毛野氏」だったとする見方もあります。
 北関東の群馬と栃木を中心とする地域は、かつては上野国(こうずけのくに)、下野国(しもつけのくに)で、それ以前は毛野国と表記される、毛野氏の土地でした。
 毛野国といえば、「毛人」とも言われていたようです。
 大和の都より東にあった、東日本の五十五国は、毛人の勢力であるとも捉えることのできる記述が、中国史書にはありました。
「宋書倭国伝」には雄略天皇の言葉として「東は毛人を制すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国」とあります。
 雄略天皇は大和国の泊瀬の朝倉宮(奈良県)に居を構えていたので、奈良から見て東が毛人、西を衆夷との認識があったようです。
 これを解釈すると、東日本は毛人国→毛野国であり、元は狗奴国だったのではないかと考えます。
 毛野(Ke-No)と狗奴(Ku-Na)はよく似てます。
 3世紀前半の段階で、狗奴国(毛野国)は東日本の東海道、東山道に広がっていたのではないかと考えられます。その後、東日本まで大和政権の支配が確定したあとの律令国制度では、狗奴国の名は関東に追いやられてしまった、そして毛野国は狗奴国の名残りなんだと思います。
 他に、東海道にあった狗奴国の名残りとしては、遠江国(静岡県)にあった、久努国造もそうなのではないでしょうか。
 久努は「クヌ」とも読めます。東海道、東山道一帯が狗奴国だったその名残りは、久努国造と上毛野国造、下毛野国造の3ヶ所だけに残されたようです。
 それから九州の球磨は、紀伊の熊野と対応している気がします。邪馬台国が北部九州から奈良盆地へ移転したという「東遷説」の見方で捉えるなら、九州の熊襲の球磨の勢力も移転していることも考えられる気がします。


 宋書自体が書かれた時代は6世紀序盤の頃でしたが、宋書倭国伝の内容自体は西暦400年代の出来事が中心です。
 「倭王・武」こと雄略天皇は、477年から502年まで、宋書や梁書に記録されてました。
 卑弥呼と狗奴国の争いが起きていた247年からは、200年以上も経過している段階でも、奈良の東側を「毛人」と表していたのは、東日本に居住する住民が、大和民族とは別の、アイヌに繋がる毛人という人々だったからだと思います。
 魏志の序文では、粛慎の長老の言葉として、「異なる顔の人々が日の出の場所に住んでいる」と書かれています。これは倭人のことを指すとする一方で、粛慎がロシアの沿海地方にあったという地理的な位置を考慮すると、異なる顔をした人々とは北海道や東日本のアイヌのことだったのではないかとも思われます。
 アイヌが毛人という表現がしっくりするような、毛深い人々だったことは、江戸時代に数多く残された絵図からも知ることができます。

 毛人国は毛野であり、かつては狗奴国でしたが、統治者卑弥弓呼は、皇族だったと考えてます。
 日本書紀の武埴安彦の反乱と、魏志の卑弥弓呼の反乱は、両書物を時系列的に並べてみてもよく似てるので、卑弥弓呼が武埴安と同一人物だと判断されるからです。
 
 3世紀の東日本は、アイヌに繋がる毛人たちが暮らしていて、支配したのは卑弥弓呼こと皇族の武埴安彦で、国の名前を狗奴国といって、奈良以東の東海道、東山道を、狗奴国の支配領域としてたんではないか。
 以上の解釈を、宋書にある雄略天皇の言葉から導き出せました。