たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅勤務の自営業。

崇神紀の「始めての船舶」の謎。

日本書紀の変な記述について。

崇神天皇の時代に、「始めて船が造られた」という、奇妙な記事があります。
何処らへんが奇妙なのかはあとで解説するとして、いつもの通り該当箇所を、宇治谷孟氏編訳の「日本書紀・全現代語訳」から引用していきます。

日本書紀
崇神天皇一七年秋、七月一日、詔して、「船は天下の大切なものである。いま海辺の民は船がないので、献上物を運ぶのに苦しんでいる。それで国々に命じて船を造らせよ」といわれた。冬十月、初めて船舶を造った。


どうしてこれがおかしいのかと言うと、まるでそれまで船が無かったかのような書き方であることと、記紀の記述を見るかぎり、崇神天皇以前の時代にも船の記述が、頻繁に登場している為です。

日本の歴史の最初の頃のこと。伊弉諾尊伊弉冉尊の国産みの際、蛭子が生まれ、不具の子だったとの理由で、葦の船に流されてしまいました。(これはひどい)

葦の船は、別名磐樟船(いわくすぶね)とか、鳥之石楠船などとも言われます。船は最初からあったのです。

天照大神による葦原中国平定の際には、大己貴命の子、事代主は、熊野の諸手船(もろたぶね、大人数が漕ぐカヌーのようなものか)に乗っていることが記されます。

神武天皇が、大和を目指して東征する際には、船団を組んで海を渡っていったとされます。
水先案内人の椎根津彦は、初めて登場する時、小舟に乗っていました。

神代の時代が真実であるか、神武天皇が実在したかとの問題点もありますが、記紀の船に関する記述を前提とすれば、崇神天皇の時代に「初めて船を造った」という部分がおかしいことに気づく筈です。

何故先祖が船を用いたことを無視して、崇神天皇が始めて船の建造を指示し、この時代に始めて船が造られたなどと、書かれているのでしょうか。

全国の遺跡からは、3世紀以前の船の遺物が発掘されています。縄文時代には、一本の丸太を繰り抜いた「丸木舟」が数多く製造されて、日本列島各地で用いられていたことが分かっています。

後漢書倭伝には、後漢建武中元二年(光武帝、西暦57年)のとき、倭人が使を遣わして朝貢し印綬を得たことが書かれ、また安帝の永初元年(107年)には、倭国王帥升が後漢へやってきたことが書かれています。これらの交易には、当然船が使われた筈です。

もし3世紀の崇神天皇以前の時代に船がないとするなら、これらの朝貢や交易の際、東シナ海を、日本列島から一々泳いで大陸へ渡っていたとでも言うのでしょうか。
それとも倭人は頻繁に海に潜る、海人(あま)でもあり、当時の海人は広大な海を、船を使わず泳いで渡るのが一般的であり、苦にもならなかったんでしょうか。

確かに現代には遠泳という競技があり、一日に10キロメートルも泳いで海洋を渡ってしまうようなスゴイ人も居たりします。
イラン人の遠泳スイマーが、2012年2月に、海域での遠泳の世界記録を更新しちゃったそうです。ペルシャ湾のホルモズ島から出発し、ブーシェフル州のデルワール港までの、総距離690キロメートルを70日間かけて泳ぎ切ったというのだから大変な人です。最終的にこの海域遠泳の総距離は、1000キロメートルに達するとのことです。

倭人が九州北西端の西松浦半島から韓国の南岸まで、途中の島を経由して、泳いで渡るとしても、直線での最短距離にしても180キロメートルもの距離があります。強力な対馬海流によって、東の日本海方面へと流されるし、強風であれば高波に襲われ、毒を持った巨大な越前クラゲの大群や、人喰鮫といった、怪獣軍団に遭遇する可能性も高い筈です。船を使わず遠泳での対馬海峡海域の横断は、危険極まりなく、死に向かうようなものではありませんか。

ちょっと極端な例を挙げてしまいましたが、やはり普通に考えれば、1世紀から2世紀初頭には、確かに船を用いて中国と修好を持っていたことは、他角度的に見ても明らかだと思います。

実は、崇神天皇の時代に初めて船舶が建造されたとの記述には、別の意味合いが込められているようなのです。
その点については、後々に明らかにしていく予定です。