たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅お仕事中。

正確な方位を知ってた?3世紀の倭人。10

垂仁天皇期に天照大神の御神体は伊勢に移され、当初は磯宮と呼ばれる社で、これが伊勢神宮の始まりとされてます。

江戸時代に偽書と糾弾され、現在も偽書説が囁かれる先代旧事本紀大成経の中で、伊勢神宮は現在別宮となっている伊雑宮こそが本来の内宮との説があり、これが偽書として非難されるきっかけとなったようです。

伊勢神宮の正宮である皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮)の敷地を観察すると、共に方位に対して寸分の狂いもなく、正確に建てられていることが分かります。

内宮と外宮は20年ごとに社殿を建て替える式年遷宮の儀が行われていますが、それを定めたのは7世紀前半から末期にかけての天武天皇で、第一回式年遷宮が行われたのが、持統天皇の690年でした。
この垂仁天皇が、西暦300年前後からそれ以降の天皇だったとすると、3世紀末期から690年まで、内宮と外宮には伊勢神宮造営当初の建物が建っていたことになり、その建物の形状と配置は、2012年現在まで全く同じであると考えられるかと思います。つまり伊勢神宮は建てられた当初から、東西南北の方位に対して完璧な精度で建築されていたと分かるのです。

今回取り上げた名神大社は伝承上では伊勢神宮より古い創建年代を持っています。これらは伊勢神宮の例と同じように、明らかに古代にそれぞれの土地に建てられたままの、社殿の向きと配置を保っている可能性が高いと思われます。そういう意味で、現在日本各地に残っている社殿のほとんどが江戸時代以降の建築物であるとしても、参考とする価値は充分にあると言えます。

ちなみに現時点で最も古い神社建築は、京都の宇治上神社本殿覆屋で、1060年に建てられたものです。法隆寺金堂や五重塔など、最古の寺院建築と比べて、古い神社建築が残っていないのは、伊勢神宮のように頻繁に建て替えられてきた経緯も影響しているかもしれません。

それで次の表は、延喜式神名帳名神大社51社を時代ごとに分別し、データ化したものです。
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↑クリックで拡大します(画像が出にくい場合はブラウザで再読み込みしてください)
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明解に要点だけ掻い摘んで説明します。
1・(神代・神武)─(欠史八代)─(崇神)─(垂仁)の順に、南北軸に対する傾きが少なくなっていること。つまり時代を経るごとに、建物の南北軸に対する配置は、正確度が増しているということ。神代の創建社では平均傾度16.95度→垂仁天皇期創建社では、僅か8.75度のズレでしかない。
2・51社のうち、最大傾度45度の半減値22.5度未満の社殿を持つ神社が全体の82.35%、であること。
3・崇神垂仁天皇の時代に創建されたと伝わる神社は、ほとんど南北軸に正確であること。垂仁天皇期の傾度11.25度未満の神社の割合は75.00%、半減値では100%であること。

以上の3点から、このデータが3世紀の倭人が正確な方位を知っていたかどうかの、一つの指標に成りうると思います。

いくつかの検証をしてきました。しかしこれでもまだ、倭人の方位概念を知るのは、証拠が足りないです。

そこで、ようやく地名の比較からの、検証方法へと進みます。

11に続く