たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅勤務の自営業。

崇神天皇が3世紀の天皇だと考える理由。3

魏志倭人伝には、当時の倭国の人物を指し示す固有名詞が、いくつか登場しています。それらは官職名であるとか、人物名であるなど、解釈も人によって分かれてくると思うのですが、そのあたりを取り上げてみたいと思います。

魏志倭人伝には、国の公務を執り行う「官」がいたことが書かれています。記録されている倭人の連合国家30国のうち、長官と副官の名が記録されているのは、全部で7カ国、倭に属さなかった狗奴国も含めると8カ国にそれぞれの国の官名が記されています。

そのなかで、倭国の都であった邪馬台国に注目して見ていきます。邪馬台国には卑弥呼の下に、数人の人物がいたことが記されています。それぞれ、伊支馬、彌馬升、彌馬獲支、奴佳鞮で、他に卑弥呼の弟で男弟と示される人物がいました。

先述した通り、これには通常、二通りの考え方が通用するかと思います。1つには、これらの名は官職名であるという説。もうひとつは、日本書紀古事記に登場する人物名に当て嵌まるとする説です。後者の場合、3世紀の倭人が記紀に記録されており、しかも中国の史書との整合性が得られることになるかと思います。

インターネット上の検索結果では、思った以上に似た意見が多いように思いました。
それは伊支馬が、垂仁天皇諡号活目入彦五十狭芽(いくめいりびこいさち)の接頭部分、活目であるという指摘です。同じように彌馬升、彌馬獲支は、御間城入彦五十瓊殖の御間が当て嵌まるというものです。彌馬が2人いるというのは、御間城入彦(崇神天皇)とその后御間城姫が当て嵌まるということです。ということは、この解釈だけで見るならば、卑弥呼の時代は、崇神朝という解釈に繋がってくる筈です。

しかしこの解釈には、一つの問題点が浮上してきます。記紀での当時の絶対的君主である崇神天皇と、史実により近いとされる魏志倭人伝の女王卑弥呼が、同じ時代の人物とすると、女王と天皇が2人同時に同じ倭国に存在していたか、という疑問点になります。

中国正史のなかで特に重要度の高いとされる魏志倭人伝後漢書倭伝、宋書倭国伝のいずれにも、3世紀前半の倭国には、女王は存在すれども、男性天皇が3世紀前半の倭国を治めていたとは、どこにも書いていませんでした。

女王卑弥呼に仕える官の伊支馬と彌馬升が、それぞれ垂仁天皇崇神天皇だとすると、女王卑弥呼に崇神・垂仁親子が従っていたというおかしな話になってきます。
それとも当時は実際に彌馬升こと崇神天皇が、女王卑弥呼に仕えていたんでしょうか。

倭迩迩日百襲姫を卑弥呼とする説があります。日本書紀の中で崇神天皇は、神憑ったモモソヒメから予言やお告げを聞き受ける場面があります。しかしあくまでもモモソヒメは日本書紀内に何度登場しても、崇神天皇に従う存在のように見受けられます。倭迩迩日百襲姫を卑弥呼とする説だけでは、倭迩迩日百襲姫が倭国の女王だったことを説明しきれないかと思います。

そこで、やはり女王卑弥呼を崇神天皇だとして考えていくと、話の筋が通ってくると思うのです。
別の解釈を考えてみました。日本書紀崇神紀の中の登場人物に当て嵌めます。

女王卑弥呼・・・崇神天皇古事記の「后」から。倭迩迩日百襲姫も同一人物の可能性。
伊支馬・・・・・活目入彦。この時は皇太子・後の垂仁天皇
彌馬升・・・・・彦坐王(にいます)、坐はイマスとも。日本書紀では崇神の異母弟。
彌馬獲支・・・・御間城姫(みまきき)。この解釈では、日本書紀崇神の后とされるのは誤りということに。
奴佳鞮は、蘇那曷叱智(そなかしち)か。この人は崇神朝にやって来た任那の人。

これはあくまでも、考えられるひとつの仮説です。崇神天皇が女性だとする根拠はもうひとつあるのですが、それは別の機会とします。

卑弥呼を補佐する男弟とは、彦坐王(坐:イマス)と考えられるかと思います。

もし日本書紀に3世紀前半が記録されていたとするなら、3世紀の倭人が正確な方位を知っていたかを検証する際、記紀の崇神朝・垂仁朝の記述を3世紀のものとして充分に引用することが可能な筈です。

(この記事は、後に追記する点があります。)