たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅勤務の自営業。

筑紫国の地名考2(崇神天皇の宮殿はどこか)

筑紫とは、古来より九州の島全体を筑紫嶋と呼んだ通り、九州全体を指し示す意味合いもあるのですが、ここでの筑紫国とは、現在の福岡県域に相当する、北部九州の筑前国筑後国のことをいいます。

歴代天皇の中で、研究者によっては、実在する可能性が割とありそうだと考えられているのが、第十代崇神天皇です。第二代綏靖天皇から第九代開化天皇までは、具体的な事績に乏しく、考古学的にも確認が困難である、いわゆる「欠史八代」であることは既に述べてきました。当然、綏靖天皇以前の初代神武天皇やそれ以前の先祖である神々も、その実在性を証明することが甚だ難しくなっています。

そうであるのに比べ、記紀の中での崇神天皇に関する記録は格段に多く、神代の雰囲気を引きずって抽象的な表現が多い中でも、真実味を帯びた記述も僅かに確認することができます。武埴安彦命の謀反の話は、狗奴国の卑弥弓呼の話に符号するのではとの説は「倭迩迩日百襲姫の謎」の方で紹介しました。自分的には、記紀と魏志倭人伝の記述との比較から、魏志倭人伝の時代は崇神天皇の時代と重なっていると思っているのですが。ともかくこの話は既出なので詳しくは省略します。

崇神天皇が何処に宮殿を築いたのかは、日本書紀古事記双方に書かれていました。
日本書紀では、「磯城の瑞籬宮」、古事記では「師木の水垣宮」といって、どちらも(しきのみずかきのみや)と読まれます。

この磯城の瑞籬宮、定説では奈良県桜井市金屋付近にあったとされているのですが、「九州の三輪山」で書いた通り、魏志倭人伝の時代の首都は九州の筑紫平野にあったのではないかとの仮説を踏まえると、瑞籬宮も筑紫平野にあったのではないかとの疑惑が浮上してくるのです。大和(奈良)と朝倉(福岡)の地名の一致については、安本美典氏が著書で指摘されています。

和名抄で郡名・郷名の記載されている国郡部の筑前国の郡郷名を見ると、次のような地名があります。

筑前国・下座郡(しもくらぐん)・三城郷(みつき) 現福岡県朝倉市
筑後国・三潴郡(みずまぐん)・三瀦郷(みずま) 現福岡県久留米市
筑後国・山門郡(やまとぐん)・大神郷(於保美和) 現福岡県柳川市みやま市
筑後国・山門郡(やまとぐん)・山門郷(夜万止) 現福岡県柳川市みやま市

まずこの中の三城と三瀦の「みつ・みず」が、崇神天皇の瑞籬宮・水垣宮の、瑞・水に当て嵌まることが分かります。三城の「みつ」は水のことだとも解せると思います。みずがきの宮は、音でこそ記紀で同一であるものの、漢字表記は異なっています。記紀編纂の8世紀時点で、口伝に依って残されてきた文字のない時代の伝承を、漢字に当て嵌めていった時に、日本書紀古事記では別の字を当てられたということになると思われますが。

ここで、口伝によって残された固有名詞「みずがき」が本当に瑞籬や水垣で正しいのかを考えてみます。これは極端な仮説になりますが、みずがきは、みずヶき、つまり「瑞ヶ城(水ヶ城)」の可能性もあると踏んだからです。これだと「ヶ」は連体格の「の」と同じ用法になると思います。例えば高天原を、(高天ヶ原:たかまがはら)と読み、別に(たかまのはら)とも読み、(たかあまはら)とも読むことが出来てしまうケースに、似ていないかということです。

筑前国続風土記の中に、下座郡に所属する村の名が記されており、その中に三奈木村という名を見つけました。延喜式神名帳(平安時代に編纂された格式)には美奈宜村と書かれており、国中第一の大村であり、交通の要所で人通りが絶えないというように書かれてます。

この三奈木が、崇神天皇の和風諡号「御間城入彦五十瓊殖命」の御間城(みまき)を語源としているかもしれないと考えました。崇神天皇の宮殿が、「国中第一の大村・三奈木村」にあったとするのは、不自然ではないように思われます。これらを踏まえると、三潴郡よりは、三城郡の三奈木村のほうが、崇神天皇の宮殿の条件としては適格なように思いますが、筑紫平野の瑞籬宮候補地は、ここだけではないです。

同じく御間城が語源ではないかと、気になる地名がもう一箇所、この筑後平野の南端にありました。福岡県の八女市みやま市との市境の小振りな山、御牧山(標高405m)です。この山のすぐ西側には、大和と同じ発音の山門郡と山門郷がありますし、山門郡の大神(おほみわ)という、奈良の三輪山に鎮座する大神神社と同じ地名が存在してました。古くは新井白石の提唱に始まる、「山門郡説」に関わる土地です。

御牧山が御間城入彦の御間城かどうかを確認する術はありませんが、日本書紀景行天皇紀にヒントが隠されている気がします。

3に続く。