たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅勤務の自営業。

正確な方位を知ってた?3世紀の倭人。7

2つの地域の地名を比較検証する前に、纒向遺跡について触れておきたいと思います。

纒向遺跡から

邪馬台国の宮殿跡なのではないかとして、2009年に国内で最も注目を集めた遺跡が、纒向遺跡の建物遺構でした。南北19.2メートル、東西12.4メートルの大型建物跡を含む4棟の建造遺構等について、桜井市教委は「三世紀前半の庄内式古相段階の構築、三世紀中頃の庄内式期の廃絶」という見解で、魏志倭人伝に記された、邪馬台国時代の建造物群であるという見解を示しました。

この遺跡と倭人の方位に何の関係があるかというと、この巻向遺跡の、第20次・第162次・第166次・第168次調査で明らかとなった建造物遺構は、方位と軸線を揃えた遺構であり、明確な設計図に基づいて、強い規格性を持つことがわかったからでした。

1本のほぼ東西に伸びる推定軸線上に、大小の長方形の建物が、ほとんど乱れることなく4棟並んでいたのです。正確な南北の経度線からは僅か5度程度西に振れるだけで、ほぼ正確に東西南北を意識して建造された可能性が高いと思われます。巻向遺跡の調査結果については、奈良の古代文化研究会編「奈良の古代文化①巻向遺跡と桜井茶臼山古墳」より引用しました。

この建物遺構が、太陽の動きと東西南北の方位を正確に意識して、纒向の地に建築されたとするなら、この3世紀前半の邪馬台国の時代に、僅か5度の誤差という正確度を持って方位を知ることが出来る倭の人物が、建設に携わったことは間違いなさそうなのですけど。

基軸となる線上に正確な長方形の建物が並び立ち、しかも東西南北の方位に近い配置のような建物遺構を含む遺跡は全国あちこちにあるのですが、そうではない、東西軸をまるっきり無視して建てられている建物もかなり多かったりします。この建物遺構は果たして方位を意識したか?という判断が下せない場合が多い中、この纒向遺跡の建物遺構の場合には、寄り添う4棟が方位にほぼ正確に軸線上に並んでいることで、太陽と方位を意図したものなのではないかと、伺い知れたわけなのでした。

これを踏まえると、やはり3世紀の倭人は正確な方位を知ってたということでしょうか。そうすると魏志倭人伝の中で奴国・不弥国の南が投馬国と邪馬台国だとする記述は、奈良ではありえず、九州の筑紫平野以南を指し示すことになります。宮殿状の大規模施設を東西南北の方角に忠実に建てられる人々が、伊都国や奴国から見て、畿内方面は当然「東方」と知っていておかしくないと思います。畿内方面が魏志倭人伝での南方だとする考え方は、見直す必要があるのかもしれません。奈良の纒向遺跡を調査することが、邪馬台国奈良説を否定するマイナス材料になりうることは、皮肉な結果とも言えそうですが・・・。しかしこれだけで判断を下してしまうのは、まだ尚早かと思います。

8に続く