たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅勤務の自営業。

遣魏使は日本書紀に記録されたかどうか。1

魏志倭人伝には、朝鮮半島にあった魏の帯方郡へ、何度も派遣された使節「遣魏使」のことが書かれてます。魏志倭人伝から、倭国の遣魏使の記述を抜き出してみます。
1・景初二年(238年)難升米、都市牛利、等
2・正始四年(243年)伊声耆、掖邪狗、等計8人)
3・正始八年(247年)載斯烏越(載斯と烏越か)
4・正始八年?(247年?)掖邪狗、等20人

最初に登場する使節の名は難升米。音読みで通常、ナンショウマイなどと読まれますが、古代の日本書紀古事記に登場する倭人的な音に直せば、ナシメのような感じかもしれません。難升米が女王卑弥呼の命令により帯方郡へ向かったのは、景初二年(238年)六月(これは景初三年(239年)の誤りとされる)の出来事でした。同じ年の十二月に魏から卑弥呼に送られた詔書によれば、この時難升米のほか、都市牛利の名が見られます。トシギュウリとかトシゴリなどと呼ばれています。

この2人の人物を、記紀に登場する人物に当てはめる見方もありました。例えば明治43年の内藤虎次郎氏の「卑弥呼孝」によれば、難升米は垂仁朝に常世の国へ派遣された田道間守(たじまもり)とされていますし、都市牛利を出雲の都我利神社の都我利ではないかともしています。この2人の後、魏へ向かった倭人は、具体的な名前が僅か数人だけしか登場してませんでした。伊声耆、掖邪狗、載斯烏越の3人です。内藤氏によれば、伊声耆、掖邪狗共に出雲国造の祖、伊佐我命と比定されているし、「上代日支交通史の研究」(藤田元春著、昭和18年)によれば、伊蘇志とされ、また内藤虎次郎氏は、載斯烏越の載斯は須佐之男須佐であり、藤田氏は倭載斯(イヅシ出石・イソシ伊蘇志)烏越(ホエ大兄)としています(いずれも中国正史日本伝・内藤道博編訳より)。ほか、都市牛利は田道間守であるとの説もあるようです。載斯烏越は載斯と烏越で2人の人物なのかもしれません(その場合4人)。

4回の遣魏使に累計30人以上が渡航した中で、具体的に名が上がっているのは、僅か5〜6人だけということです。遣魏使の代表者の名のみが記録されたのだと思われます。

倭国が魏の属国となっていた記録は短く、239年から247年までの9年間だけで、それ以降の記録は途絶えています。しかし卑弥呼の死後、正始八年の壱与の時代が始まって以降、魏の滅亡する265年まで、一貫して朝貢は続いたものと思われます。

日本列島から、わざわざ遠く朝鮮半島の韓国ソウルの北方にあった帯方群治まで、舟と徒歩で行って帰ってくることは、相当骨が折れる旅路になった筈です。、この複数回も繰り返された遣魏使の出来事が、記紀の中に残されていないのはどうしてなのかと考えていました。

古事記日本書紀共に、第十代崇神天皇以降の事績は充実していますが、卑弥呼の時代に相当すると自分としては思っている、崇神天皇前後の記紀の既述からは、この遣魏使に関する既述は、一見して見つけることができません。或いは卑弥呼の時代は、崇神天皇よりずっと前のことなんでしょうか。

やはり記紀に該当する既述は無いのかと思いきや、実はこの遣魏使によく似た行動を取っている、神代の時代の神がいました。

2に続く