たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅勤務の自営業。

大地震と大津波と神功皇后の新羅親征

 拙著の中で、日本書紀編者の舎人親王らが、神功皇后を卑弥呼と認識していたことは書いていたのですが、魏志を引用している点については書き忘れていました。

 最近、広開土王碑の碑文の辛卯(391)年の出来事として書かれた「倭の軍勢が渡海し百済と新羅を破って臣民としてしまった」と読み取れる記述の主が、「神功皇后率いる倭軍」であった説を補足する推察を思いついたので、メモしておきます。

 

 以下は広開土王碑の碑文です。

「而倭以辛卯年来渡海、破百残□□新羅、以為臣民」これは391年。「始めて新羅を破った記録」を日本書紀から拾い出すなら、神功9年=391年になるということです。

 

 次に、神功皇后が新羅へ出兵した記録の中に、大津波が起きたかのような記録があり、以下のように書かれています。

古事記では、

「大神の仔細な教えのとおりに、軍勢を整え、船を並べ、海を渡ってお行きになる時に、海の魚が大小となく、すべて一緒に御船を背負って渡った。すると強い追い風が盛んに吹きおこり、御船は波に乗って走った。そして、その御船を押し進めた大波は、新羅国に寄せ上り、もはや国土の半ばまで来た。これに、その国王は、恐れはばかり、「今から後は天皇の仰せのままに、新羅は天皇のお馬の飼育係となり、毎年船を連ね、船の腹を乾かさず、棹・楫も乾く暇もなく、天地のあるかぎり、絶えることなくお仕え申し上げます」と申した。こうした次第で、新羅国を御馬飼と定め、百済国を海彼の屯家と定めた。そして皇后は、御杖を新羅の城門に衝き立て、住吉大神の荒御魂を国を守る神として祭り鎮めて、海を渡り帰還なさった。」(新版古事記現代語訳付きより)

 

日本書紀では、

「冬十三日、鰐浦から出発された。そのとき風の神は風を起こし、波の神は波をあげて、海中の魚はすべて浮かんで船を助けた。風は順風が吹き、帆船は波に送られた。舵や楫(かい)を使わないで新羅についた。そのとき船をのせた波が国の中にまで及んだ。これは天神地祇がお助けになっているらしい。新羅の王は戦慄して、なすべきを知らなかった。多くの人を集めていうのに、「新羅の建国以来、かつて海水が国の中にまで上ってきたことは聞かない。天運が尽きて、国が海になるのかもしれない」と。その言葉も終わらない中に、軍船海に満ち、旗は日に輝き、鼓笛の音は山川に響いた。新羅の王は遥かに眺めて、思いの外の強兵が我が国を滅ぼそうとしていると恐れ迷った。」(日本書紀(上)全現代語訳より)

 

 これを一見するに、大津波を著したものと見られますね。

 台風の暴風であれば、風は起こるだろうけど、高波が新羅国の内陸部まで押し寄せることはないであろうからですね。魚が浮き上がったというのも、津波によって海中の魚が大量に打ち上げられたことに由来するので、強風ではまず起こり得無いのではと。

 ともかく神功皇后の新羅出兵の時期は、丁度大地震による巨大津波が発生した頃と前後し、2つの出来事が合わせられて書かれているのかもですね。

 

 では神功皇后の渡海が391年で、丁度同じ頃に大地震と大津波が新羅に押し寄せた証拠があるのかなと調べました。すると次のような情報が。

地震の年表

三陸から房総にかけてM9級の超巨大海溝型地震と津波発生の可能性。宮城県気仙沼市大谷海岸で津波による堆積物が発見されたため。

北海道大学の平川一臣ら、および政府の地震調査委員会によって行われた宮城県気仙沼市大谷海岸の調査によると、過去6000年間に紀元前4〜3世紀頃、4〜5世紀頃、869年の貞観地震、15世紀頃、2011年の東北地方太平洋沖地震の5回、三陸から房総にかけて約600年周期で海溝型地震と津波が起こったとされる。

 

 この4~5世紀頃に起きた地震が、新羅に津波を引き起こしたかというところですが、三国史記には8世紀頃の地震の記録はあるらしいですが、新羅の4~5世紀に津波が起きたという記録は無いのですかね。詳しく調べてみないと。 

 

 ところで、日本書紀の允恭5年、遠飛鳥宮(奈良県)で起きた地震の記録があり、これが日本最初の地震の記録とされます。允恭5年は皇紀から導くと、西暦416年となり、允恭5年の地震といえば416年に起きたと一般的に言われるらしいです。

 しかし皇紀そのものは実際の西暦年とかなりズレており、だいたい自分の考えでは「允恭5年=西暦447年頃?」と見ています。このへんは允恭天皇陵墓に比定される市野山古墳が5世紀半ばであること、また「宋書」の倭王「済」を、五王の系図から導き允恭天皇として見た時、宋書の倭王済の登場が443年~451年頃ということになっており、つまり允恭の地震は允恭天皇即位443年より5年後、447年ということになると思っています。(私は記・紀の即位年・宝算・崩御年より、中国史書のほうの年号を優先して見ております・・・。)

 また、倭王済の記録を優先した時、日本書紀允恭天皇在位年が42年間と崩年が453年、古事記では崩年が454年となっていて、42年間の在位というのは明らかにおかしいことになりますが、(倍暦とか考えても、無理やり当てはめることになり、解決しない)このへんは省略。

 

 4〜5世紀頃のM9の地震が三陸沖~房総沖で起きた海溝型地震とすると、当然のごとく余震だの、別の地域に連動した活断層型地震だのが頻発するとおもうので、日本海側で津波を擁する大地震が発生し、新羅の内陸へ押し寄せた、丁度その頃神功皇后が新羅へ遠征し、記・紀及び広開土王碑に記録された、と考えられなくもないなと思いますた・・・。

 

おわり