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たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅勤務の自営業。

倭の五王編年

 倭の五王について思いついたのでメモ。

ウィキペディアの「倭の五王」ページ参照

(このページはどなたかの主観が強いみたいで、間違っているところがあるのでだまされたった・・・・・・たとえば宋書倭国伝の477年のところ、「これより先、興没し弟の武立つ、云々」の文章は、ウィキの477年のところに書かれているのですが、宋書の原文を読んでみると「昇明元=477年」の元号が入ってない。ところが477年の出来事と断定されていたりする。438年のところも同じであるが、宋書文帝紀の内容と一致が見られるので438年は問題ないっぽい・・・ウィキペディアのご利用は慎重に。。) 

これを元に倭の五王が記録された年を、簡単な表にすると次のようになります。これは中国の歴史書と日本書紀の系図を元に、一致する各天皇を当てはめたものです。

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西暦 倭王   倭王の在位  日本書紀の在位
413 讃
421 讃
425 讃
430 讃    讃の時代25年? 第十七代履中天皇6年
438 珍(彌) 珍の時代5年? 第十八代反正天皇5年
443 済(斉)
451 済
460 済・興  済の時代19年? 第十九代允恭天皇42年
462 興    興の時代3年?                
477 興・武  興の時代15年? 第二十代安康天皇3年
478 武
479 武
502 武    武の時代25年? 第二十一代雄略天皇23年 

なんかよくわからなくなりましたが。

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 倭王武が雄略天皇諡号「幼武(ワカタケ)」の武であることは知られます。同時代に埼玉の稲荷山古墳の鉄剣の金象嵌に「獲加多支鹵(ワカタケル)」があり、刻まれた年が辛亥年七月中記でこの年を471年と考えると、倭王武=雄略であることがわかります。武の時代は471年以前から始まってたらしい。

 稲荷山古墳鉄剣の記録と合わせると、倭王武=ワカタケルの時代は471~502年マデとなる。

中国史書の記録 武の時代25年 
日本書紀の記録 雄略天皇23年 

辛亥(471年七月中記鉄剣銘 獲加多支鹵=武=雄略)
実年数471~502 31年

31年間にすると、清寧天皇(白髪武)まで含まれるかもしれない。 

 また倭王興の時代は15年数えられますが、比定される安康天皇の在位は、日本書紀では僅か3年となっていて、5倍もの開きがあります。安康天皇は在位3年間なので、倭王興の時代15年のうち12年間は実際には倭王済=允恭天皇のものだとしたら、次のようになります。「済の19年+興の余分な12年=31年」

 これで日本書紀の在位年数に近づきました。が、どうなんだろう。もちろん興を3年と考えることも可能。

 

 倭王讃の時代は西暦413年以前から続いていた筈で、かなり長いのですが、自分としては、倭王讃の中に、応神、仁徳、履中の3人が合わせられているのは確かなように思います。そうすると日本書紀で応神41年、仁徳87年という長大な在位年数は無視しないといけなくなります。なぜなら個人的には崇神天皇は卑弥呼と壱与の習合と考えるからです。

 ともかく倭の五王の記録を、魏志倭人伝と同様に正確なものであると前提で話をすすめるなら、こうなる筈です。

 しかし倍暦(春耕秋収を計って年紀と為すとの倭の風俗記事があることから、1年を2倍にして年次を設定したとする説、過去に1年間を2年と数えた説)の半減値を当てはめるとすると、倭の五王を切り捨てないといけなくなってしまいますね。倭の五王の記録を優先するか、日本書紀を優先するかですね。

 

おわり