たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅勤務の自営業。

西暦200年頃の極東情勢と、大陸を移動したかもしれない卑弥呼様

 なんか俺をいじめることがステータスを表すんだ、楽しい流行だみたいな、老若男女に拘らず、世の中のそんな風潮、気のせいですか。

 

 西暦200年頃の極東は、民族大移動が起きてたらしいです。豊田さんの「歴史から消された邪馬台国の謎」や、中国の歴史書から情報をまとめてみました。この図に表示されただけが全てではなく、他にも色々あったのですが、特筆すべき出来事だけを掲載しています。

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 朝鮮半島の付け根に、楽浪郡がありました。鮮卑の檀石槐は、東へ向かい、魚をとるのが上手い「汗人」を、内陸の遼西郡の老哈河のほうへ数百戸も強制移住させてしまいました。この汗人、実は三国志集解という書物で、倭人の別名であると記されてます。汗人=倭人だったんです。

 で、楽浪郡に「満番汗・番汗」という街がありました。檀石槐が汗人を拉致した現場に近く、この番汗は、汗人=倭人の居住地だったと考えられちゃいます。

 桓霊の間(西暦147~189年頃)韓濊が強勢となり郡県が制御不能となり、大量の流民が韓国へ向かいました。ここで変な記述だと思ったんですが、韓濊の内、「濊が韓へ向かった」であれば、地図を見て分かる通り、北方の濊や東濊から南方の三韓へ向かうという出発地と目的地は明確なのです。しかし「韓が韓へ向かった」だと、文脈がおかしいんです。出発地と目的地が両方「韓」なのが変なのです。

 西暦204年に帯方郡が設置されたのは「東夷の諸民族が南方の韓へ向かうのを制御するため」と解釈すると、最初の「韓」は「汗」のことで、「北方の汗濊が南方の韓へ向かった」というふうに考えるとしっくり来る気がします。そもそも韓も汗もkanであり、中国語と朝鮮語では共にhanと読むので、元々韓も汗も倭も一緒だったのかもしれません。

 

 「新羅本紀」には、193年に倭国で大飢饉が起き、千余人の倭人が食料を求めて新羅(辰韓)へやってきたとの記述がありますが、これは豊田さんの解釈通り、大飢饉で飢えて歩くのもやっとな倭人が、はるばる九州から海をこえてやって来るか?という尤もな話であるので、朝鮮半島南端の倭=任那から辰韓へ向かった記述であるとの判断が真相だと思われます。

 

 妙な記述は「晋書」にあり、卑弥呼のご先祖さまが公孫氏かのように書かれてる所です。でもここまで書いてきた通り、汗人=倭人の本拠の一つが、西暦180年時点では九州と朝鮮半島南端の他に、楽浪郡のあたりにもあったとすれば、丁度そこは公孫氏の支配してる場所なわけで、晋書の記述は「卑弥呼様のご先祖様は公孫氏様の支配地に居た」とすれば話が通じることになってきました。

 赤い点線が、以上の理由から推定される卑弥呼の移動ルートです。楽浪の倭人居住地「汗」の地から、楽浪郡を抜け、帯方郡のまだ設置されていない朝鮮半島を南下、卑弥呼はまず、馬韓地方自治体を作ったのかもしれません。半島の南端の赤く塗ってあるところは、中国史書に書かれる倭人居住地です。

 「魏志馬韓伝」には「卑弥国(卑彌國)」の名があるからです。卑弥国を作った後、しかし卑弥呼はすぐに加羅任那=朝鮮半島の倭)へ入ります。卑弥呼がここから倭国へ渡っていった出来事が、比売碁曽の阿迦留比売伝説へと姿を変えました。比売碁曽とは卑弥呼の名の名残だったわけです。向かった先は大阪の難波ではなく、筑紫の奴国(後の灘県主)だったとも考えられます。奴国とは「漢委奴國王」印の授けられた國で、もしくは委奴国=伊都国かもしれません。ともかく最初に卑弥呼が九州へ上陸して向かった国は金印を授けられた奴国か伊都国のどちらかです。卑弥呼=崇神天皇諡号を元に考えるなら、伊都国かもです。なぜならば「御間城入彦五十瓊殖天皇」の「五十」は「イト=伊都」だとおもわれるからです。任那と伊都という2つの国名を、崇神天皇諡号から確認できます。このあたりは本に書きました。

 

 以上の仮説には、確固たる証拠はまるでありません。でも「卑弥呼は公孫氏(の付近に居た)」なる記述と、楽浪郡付近の汗人=倭人の南下の記述、阿迦留比売の伝説、崇神天皇諡号に御間城=任那加羅と、五十伊都=の名前があることなどを踏まえると、全てが妙に繋がって来ると思いませんですか。

 これは私(普段俺とか言ってるのに、こういう時は私とか使うのが大人の世界らしい)の考えである「崇神天皇=卑弥呼(倭迹迹日百襲媛命+比売碁曽の阿迦留比売)+壱与」説で導き出された仮説です。

 

おわり。