自分が大嫌い。俺なんか、早く消滅すればいいのに。そんな風に思い続けて、十何年も経過したことか。欠点や失敗や病気の症状のことでいじめられ、悪口を言われたり、からかわれることは、いつものことで、自分のせいである場合は、生きててすいませんと思いつつ、誤解され悪く言われる時には、人に嫌われて弄ばれてしまう自分自身が情けなくてたまらない昨今。
様々な理由で、いじめられてる子供・大人が周囲にいませんかね。その人達は、勉強・趣味・習い事、仕事を諦めてしまってますかね。少なくとも学校や会社に通っていたり、日々努力を重ねているのであれば、いじめられていたとしても、勉強・趣味・習い事、仕事をすることを、諦めてはいないということですかね。いじめ自殺事件が度々起きてたりすると、自分自身と重ねて思い、一層いたたまれませんです。
だから自分のような逆境に生きる人を知る度に、頑張ってほしいと思い、自分も出来る事をやろうと思っている今日この頃。自分の場合、日頃の苛立ちはあっても、怒りの面を最前面に出して言動することは、憚られるかと思う部分もあるんですな。ジャイアン曰く、のび太のくせに生意気だぞ的なところが、確かにありますからね。・・・精神的肉体的に、やっとこさ持ちこたえているような感じですが。とくに最近は限界が近いです。
ということで、高天原の神様が太陽神だった説。続き。
生命を表す神様がいるのなら、生命体にとって必要不可欠な太陽光を表す神様がいるはずと思ってました。単刀直入に言えば、高天原の三神が、太陽神だったように思われます。理由を簡潔に述べますと次のとおりです。
1・古事記の高天原三神の漢字表記「天之御中主神」「高御産巣日神」「神産巣日神」には、古事記中に登場する神様の中で、初めて「日」の字が登場する。日とは言わずもがな、太陽のことです。三柱の神のうち二柱に日が用いられています。
2・天之御中主とは、天の中央に位置する主、つまり太陽のことであるとします。
3・太陽神が三柱存在するのは、三位一体の考えに基づいている筈です。日本では古来より3つで一つを体現する、そういう思想がありました。三貴子(みはしらのうずのみこ)、三種の神器、三つ巴。社殿の構造の多くが本殿・幣殿・拝殿の構造であることも関係していそうです。
4・日本書紀での高天原の三神に太陽を表す漢字は用いられていませんが、天之御中主が太陽であることに疑いの余地はなく、高皇産霊・神皇産霊の「霊(ひ)」は日=太陽を発音で表すものであるようです。
この神々は一見して日本的でありながら、根源を探れば外国の歴史的書物にその端を発する可能性も考えられます。その点は天地開闢の展開自体、混沌から天と地と日光が生まれ、植物、動物、人間が生まれたという話の展開が、如何なる書物の内容によく似通っているかに注目すれば、自ずと生まれる着想です。しかし既にそのような書物は多く出ているので、詳しいことは割愛します。
おわり。