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たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅勤務の自営業。

中国東北部・倭人に関わる重要な地名

地名 中国

 中国の東北地方。現在この地域には黒竜江省吉林省遼寧省内蒙古自治区の各自治体があり、それぞれの面積は日本の4大島にも匹敵する程巨大な面積で、それぞれは日本の都道府県を上回る、膨大な人口を有しています。

 地理的に見ると、中国北方とロシアとの国境線は、丁度アムールの大河で隔てられており、中央に広がる満州平野を取り囲むように、北には大興安嶺山脈、小興安嶺山脈、東には長白山脈、南に遼東半島の、西側は殺伐としたゴビ砂漠が広がっています。

 この土地には、かつては大日本帝国の傀儡国家である満州国が建国されました。それ以前にはモンゴル系の騎馬民族国家である元や清が、長らく覇権を握った土地でもありました。さらに時代を遡れば、東夷族と呼ばれた扶余・高句麗や、鮮卑などの騎馬民族の居住地として「魏志」に記録された時代があり、さらに遡ると紀元前には東胡、粛慎、山戎といった東夷の前身となる遊牧民族の住まう土地だったようです。

 そしてこの中国東北部には、かつて倭人が住んでいたという中国史書の記録があります。どうやら満州は、古代の倭人の先祖の一部の故地でもあるのではないかと、目下精査検証中でありますが、調査を進めるに従い、この地域が間違いなく日本人に深く関わる地域であることを突き止めてることになりました。

 それで、この地域に残されている倭人に関わる地名とは何かの話になります。

 古代の倭人が自らのアイデンティティを主張する場合に、自らの存在を単純な言葉でなんと称していたと思いますですか。現代人で言うなら、「わたしは日本人だ」の「日本人」に当たる言葉です。それは「倭人(わじん)」だったでしょうか。倭人たちの自らを指し示す呼称は「ヤマト」でした。ヤマトは日本列島を支配する天皇を中心とし、天皇の下に集った民族の住まう国の名であり、ヤマト国に暮らす人々は、やがて現在の漢字を宛てがい、大和の民、大和民族、日本民族となりました。ヤマトとは、倭人の出自を象徴する重要な共通のキーワードというわけです。

 もしこの名が、日本列島から離れた場所にもあったとしたら、それは勿論広大な土地に1箇所や2箇所程見つけられる程度であれば、偶然同じ名を用いた人々がいたと解釈が成り立ちます。

 しかし日本列島からほど近い、かつて東夷の民族が住んでいた、局所的な狭い範囲の中に、幾つものヤマトを見つけ出すことが出来たなら?広大なユーラシア大陸の極めて狭い範囲に、意義深い同一地名が集中している地域があったとすれば、それは偶然の一致を越えた繋がりのほうを考えてみるべきだと思います。

 これまでに、ユーラシア大陸の地名の全検索を幾度か繰り返し行なってきました。全検索というのは、地図上の隅から隅まで、人口数十人のほんの小さな村、大字、小字、と言われるような極小の範囲まで、知りうる限りの全部の地名を、縦横に検索していくという途方も無い手法です。時間と余剰エネルギーがないと出来ないし、フラストレーションが溜まる仕事なので、あまりお勧めしません。

 尚、地名を検索する歳の留意点としては、ヤマトをローマ字表記した歳の子音Y-M-Tに、a.i.u.e.oの母音を合わせた単純な組み合わせに最も近い地名だけを抽出していきました。

 その結果、満州平原を中心とした10箇所ほどに、該当する地名を見つけることができました。中国の地名は当然ながら漢字表記で、日本とは漢字の読み方も違うので非常に分かりにくく、検索作業も翻訳作業も困難を極めました。全てを見つけ出すのは容易ではありません、恐らく取りこぼしもあるのではないかと思いますので、もう何度か全検索を行なおうと考えているところです。

 一部を公開しますが、例えば中国東北部には「雅馬托」という村があり、読みは「yamatuo」となり、全くヤマトそのものなのです。他に「腰木斗」という小さな村を取り上げると、この読みは「yao-mu-tou」となり、ya-ma-toにきわめて近いものです。過去の漢字の発音が違うと指摘されそうですが、地名の場合は古代と同じ音がずっと残っていて、漢字のほうが音の変化に合わせて置き換えられている可能性があると言えます。ちなみに「腰木斗」を中国の中古音(隋・唐音)で読んでも「eu-muk-tou」となるようで、それほどかけ離れることはないようです。(「学研漢和大字典」参照)

 これらは要するに大和民族たる、天皇に仕えた日本人の先祖が、かつては満州平原の扶余の地域に居住していたという事実を証明するための要素と考えています。また、この該当する地名は満州に留まらず、ユーラシア大陸の奥地でも、局所的に一定の法則に基づいてまとまって存在することも確認することができました。該当する地名は、中央アジアまで含めると全23カ所になります。

 これらの地名は、大日本帝国の傀儡である満州国が建国された当時に、日本人が入植し、大和の名を刻んだというわけではなく、大戦中に日本人が大陸奥地に到達する以前から、同様の地名が多数存在していたということになります。

 弓月国の融通王が127県(数万人)の民を率いて応神天皇の治める日本列島に渡来したとの話をご存知の人も多いかと思います。「新撰姓氏録」によれば、融通王は秦の始皇帝の子孫となっており、一説によれば弓月国とは現在の中央アジアにあった国ということです。弓月国の人々は、一体如何なる民族だったのか。有る根拠から、弓月国の人々は元々は倭人と同族だったと考えています。しかしユーラシアのヤマトの地名は、彼らが残したものではなく、それ以前の日本人の先祖の一団が残した地名であると考えています。彼らが何処からやって来たか、全ての検証と結果も既に出揃ってきました。今回はほんの触り程度の解説を残しました。

 いずれ近いうちに、まとまった固形物の形で発表できればとの願望を抱いておりますが、まずは自身初の本の完成と発売を待って、それから話の続きをしようと思います。